#30 居住区潜入
翌日、俺は居住区への潜入準備を始めた。
まずは居住区の状況調査から始める。
市民の意識レベル、政府への不満、そして情報伝達の最適なルートを探る。
リーナが偽造身分証を用意してくれた。
「これで居住区の一般市民として行動できます」
「ありがとう」
俺は身分証を確認した。職業は「フィールド作業員」となっている。
「居住区の外周部から徐々に内部へ浸透していくようにください。
急激な変化は監視システムに察知されます」
リーナの助言に俺は頷く。
情報戦は武力戦と違い、忍耐と慎重さが要求される。
「定期的に基地と連絡を取ります」
「何かあれば即座に撤退してください」
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夕方、俺は基地を出発した。
居住区まで2時間の道のりを、一般市民として自然に移動する。
途中で検問があったが、偽造身分証は完璧に機能した。
「お疲れ様です」
検問のエージェントが形式的に挨拶した。
「お疲れ様です」
俺も自然に応じた。
居住区に到着した俺は、まず外周部の労働者居住区で情報収集を始めた。
街の通りには、無表情な人々が同じ速度で歩き、同じ方向を見ている。
機械仕掛けの人形のように――その光景は、不気味なほど整然としていた。
あの後に受けた、オルフェンの指示を思い出す。
『急がず、慎重に。まずは住民の意識レベルを把握することから始めろ』
俺は小さな食堂に入り、注文したスープを口に運びながら周囲の会話に耳を傾けた。
味は悪くはないが、どこかぼんやりとしている。
それはまるで、この街の雰囲気そのものだと感じた。
「最近、作業効率が上がったって上司が褒めてくれたよ」
「そうですね。なんだか体調も良いし、集中力も増したような気がします」
「マイクロチップのおかげかな」
彼らの会話はどれも共通点があった。
それぞれの声には抑揚がなく、まるで同じトーンでの表面的な会話。
マイクロチップによる感情制御の結果だろう。
――これが、“完全管理社会”の現実か。
俺は隣席の中年男性に話しかけた。
「お疲れ様です。今日も作業でしたか?」
「ええ、エネルギープラントでのメンテナンス作業でした」
男は穏やかに答えた。
「あなたは?」
「フィールドでの資源採取です」
俺は偽造身分に合わせて答える。
「大変なお仕事ですね」
口調は丁寧だったが、感情の起伏がまるでない。
“会話”というより、“ただ反応している”といった印象だ。
俺はスプーンを置き、男の目を見た。
そこに、本来ならある“意志の光”はなかった。
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食堂を出た後、俺は住宅街を歩いた。
笑い声や、怒鳴り声、泣き声など、感情的な音はここにはない。
淡々とした音だけを耳にした。
静けさの奥に、奇妙な圧力があった。
――だが、俺は気づいた。全てが失われているわけではないようだ。
通りを行く人々の中に、ごくわずかに、違和感を抱く者たちがいた。
足取りが揃っていない者、目線がどこか宙を泳ぐ者。
その一瞬の揺らぎが、まだ彼らは「人間」だと証明している。
俺は公園のベンチで休んでいる若い女性に声をかけた。
「こんにちは。良い天気ですね」
「あ、はい。そうですね」
その目を見て、俺は確信した。
他の住民とは違う。彼女の瞳には”意志”があった。
「最近、何か変わったことはありませんか?」
一瞬の沈黙。
女性は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「変わったこと……。よく分からないのですが、時々、頭の中が混乱することがあります」
「混乱?」
「自分が何を考えているのか、よく分からなくなるんです。
でも……そんなことを考えるのは、良くないことなのでしょうね」
――やはり、チップの制御は完全じゃない。
彼女はまだ屈していなかった。
マイクロチップが思考を支配していても、“魂”までは奪えない。
「そんなことないですよ」
俺は穏やかに言った。
「自分の気持ちを大切にすることは大事です」
「……でも、個人的な感情は社会の調和を乱すって教わりました」
「誰がそんなことを?」
「政府の広報で……」
俺はゆっくりと息を吸い、目を合わせた。
「でも、感情があるからこそ、人は人なんじゃないですか?」
女性の瞳が揺れた。
彼女の中に眠っていた“違和感”が、少しずつ目を覚まし始めたのが分かった。
この街に、まだ“希望の火種”は残っている。
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女性との会話を終え、俺は中央市場へ向かった。
オルフェンが指定していた情報収集ポイントの1つだ。
昼下がりの市場は活気に満ちていた――少なくとも、表面上は。
商人と客のやりとり、子どもたちの遊ぶ声。それを見る大人たち。
だが、耳を澄ませばやはり違和感がある。
会話の内容が、異様に似ているのだ。
「今日も平和な一日ですね」
「政府のおかげで安全に暮らせます」
「マイクロチップのおかげで体調が良いです」
まるで“台本”でもあるかのような統一感。
俺は果物を並べる老人に声をかけた。
「美味しそうな果物ですね」
「ええ、政府の管理のおかげで品質が保たれています」
「昔はどうでしたか?」
老人の動きが止まった。
「昔……?」
しばらく沈黙が続いた後、彼は曖昧に笑った。
「昔のことは、よく覚えていませんが……今の生活に満足しています」
その声の奥に、わずかな“困惑”を感じた。
思考を封じられた人間の、無意識の抵抗の意志を。
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市場での調査を終え、俺は広報センターへ向かった。
定期的に行われる市民講演――それが政府の洗脳教育の中枢だ。
建物の前に並んだ人々が、整然と入場していく。
笑顔はあるが、どこか作り物のようで不気味だった。
俺は群衆に紛れ込み、講演を聞くことにした。
「市民の皆様、今日も平和で安全な一日をお過ごしのことと思います」
広報官の声は流れるように滑らかだが、冷たい。
聴衆は一斉に頷いた。
「我々の社会は、マザーの英知により完璧に管理されています。
犯罪も戦争も存在しません」
「そうですね」
観客が一斉に同意した。
その声には少しもズレがなく、まるで1人の人間が喋っているようだった。
「個人的な感情や欲望は、社会の調和を乱す要因です。
マイクロチップにより、それらは最適に制御されています。」
背筋に冷たい汗が流れた。
この街では、感情は“不要”とされている。
だが――すべての心が支配されているわけじゃなかった。
数人の視線が、講演を聞く人々の中でわずかに動くのに気付いた。
1人の青年が、拳を握りしめている。
目には戸惑いの色。――明らかに、他の者とは違っていた。
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講演後、俺はその青年に近づいた。
「お疲れ様でした。参考になる講演でしたね」
「ええ……そうですね」
声に迷いが混じる。
俺はその瞬間を逃さなかった。
「何か気になることでも?」
青年は周囲を確認してから、小声で言った。
「あの……変なことを言うようですが、あなたは時々、自分が何者なのか分からなくなることはありませんか?」
――きた。
心がまだ“生きている”者の言葉だ。
「どういう意味ですか?」
「自分の考えていることが……本当に自分の考えなのか、分からないんです」
俺は静かに答えた。
「それは、自分を失っていない証拠ですよ」
「でも、個人的な思考は良くないって……」
「誰がそう言いました?」
青年の視線が揺れた。
「政府が……でも、本当にそうなんでしょうか?」
沈黙のあと、俺は決断した。
――この青年には、次の段階を踏ませていい。
「少し時間はありますか? 静かな場所で話しませんか?」
青年は一瞬のためらいのあと、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、俺の中で確信が芽生える。
ここにもまだ“希望の火種”があった。
たとえ小さくても、その炎を広げることが――俺の新たな戦いだ。
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男は人気のない公園の奥へと、俺を案内した。
月明かりが薄い靄を照らし、樹木の影が揺れていた。
「あなたの名前は?」
俺が低く問いかけると、男は一瞬ためらい、声を絞り出した。
「トム・ハンソンです。……工場で働いています」
制服の袖口には細かい油汚れ。
多分、チップ制御の下で長時間労働を強いられているのだろう。
彼の瞳には疲労と、かすかな混乱が滲んでいた。
「トムさん。あなたが感じている“違和感”は、異常じゃありません」
「……違和感?」
「ええ。心がざわつくような、説明できない不安。
それは病気でも、チップの故障でもない。…むしろ、人間として自然な反応です」
「どういうことですか?政府は、私たちを保護してくれているんじゃ……」
「保護?」
俺は静かに息を吐いた。
「それは“管理”を別の言葉に変えただけです。
あなた自身の心に、もう一度聞いてみてください。
本当に、今の生活に満足していますか?」
トムは目を伏せたまま、長く沈黙した。
「……実は、最近、奇妙な夢を見るんです」
「どんな夢ですか?」
「空を飛んでいる夢です。誰にも命令されず、好きな場所へ行ける。
……でも、目が覚めると、胸が痛くなるんです。なぜか分かりません」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
夢の中で自由を求めている――それだけで十分だ。
トムの“心”は、まだ生きている。
「それは、あなたの本当の心が見せている光景だと思いますよ」
「……本当の、心」
「ええ。あなたの中に眠っている“自由を求める意志”です。
人間には、自由に生きる権利がある」
トムは小さく震えながら、俺を見た。
「……それを、信じてもいいんでしょうか」
「信じることが、最初の一歩です」
少しずつ、彼の瞳の奥に光が宿っていった。
まるで暗闇に、灯がひとつ点るように。
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トムとの会話は、気づけば1時間を超えていた。
最初は疑念と恐怖で固まっていた彼の表情が、少しずつ柔らかく変わっていく。
「他にも……僕と同じように感じてる人がいるんですか?」
「います」
俺は即答した。
「政府の管理下でも、完全には心を奪われていない人がいます」
「でも、こんなことを言えば……通報されます」
「確かに危険です。
…でも、今のまま何も感じないで生きるのは、死んでいるようなものだと思いませんか?」
トムは苦しげに笑った。
「……そうかもしれません」
俺は小さく右手で×印を描いた。
レジスタンスで密かに使われている合図。
「これは、自由を求める者たちの印です。
もし、あなたのような人がいたら、教えてあげてください」
トムはおそるおそる真似をした。
「こう、ですか?」
「そう。その印を返してくれる人は仲間です」
「……本当に、そんな人たちがいるんですね」
「ええ。あなたは1人じゃない」
トムは小さく頷いた。
そして――まるで何かを決意するように、目を瞑り深く息を吸い込んだ。
「……分かりました。僕、やってみます」
目を開いた瞬間、彼の表情は変わっていた。
そこには意思の光が見え、ひとりの“人間”の顔になっていた。
俺は思わず微笑んだ。
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3日後にまた会う約束をしてトムと別れた。
帰路へとついた俺の頬を、夜風が撫でる。
遠くで都市の監視塔が光り、ドローンが規則的に巡回している。
その光の下で、ひとりの男が“自由”を思い出した。
――それだけで、今日という一日は価値がある。
俺は通信機を起動し、オルフェンに報告した。
「初回接触は成功。住民の中に、覚醒の兆候を確認」
「よくやった」
オルフェンの声は低く落ち着いていた。
「ただし、油断はするな。監視網は日に日に強化されている」
「分かっています。明日は、より慎重に動きます」
「目標は“広げる”ことではなく“育てる”ことだ」
「……育てる?」
「覚醒した心は、種のようなものだ。
一度芽吹けば、あとは広がっていく。焦るなよ、レイ」
俺は頷いた。
「了解。次はもう少し深く関わってみます」
通信を終えた後、俺は夜空を見上げた。
星の光が流れる。
冷たい空気の中に、確かな“希望”の匂いがあった。
まだ小さな灯火だ。
けれど、それは確かに燃えている。
人々の心に再び自由の火を――それが俺の、新たな戦いだった。




