五夜 霞
雨は上がっていた。
僕は彼女の声を頼りに、ひたすら歩き続けた。
心の中に宿った小さな火が、僕の体を温めるようだった。
愛なんて嫌いだ。
そう言っていたはずなのに、僕は彼女の温もりをもう一度確かめるように、足早に歩みを進めた。
彼女の家のマンションに着くと、僕はエレベーターには登らず、彼女に早く会うために、階段を駆け上がる。
一刻も早く彼女に逢いたい。
この胸の痛みを、彼女の温もりで満たしたかった。
彼女の部屋のドアで立ち止まる。
ドアの隙間から僅かに、光が溢れている。
僕は、震える手をドアノブにかけた。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は静かだった。
何かを決めたかのように……
僕は、ただ彼女を探した。
そして、リビングにいる彼女をみつけ、安堵した。
彼女は、部屋の外を眺めてぼんやりとしている。
何か、嫌な予感を覚える。
僕は彼女に近づく。
「……ここにいたのか。」
そう呟いたが彼女は答えない。
ただ、その瞳は僕を捉えている。
「僕は、もう一人で歩きたくない。」
そう言い、僕は彼女に手を伸ばす。
だが、その手が彼女に届く前に、僕の腕は誰かに掴まれた。
僕は、ゆっくりと、振り返る。
そこに居たのは、見知らぬ男だった。
男は僕を睨みつけ、そして彼女に向かって言う。
「こいつ、誰だ?」
彼女は、僕に目を向けたまま、静かに答えた。
「あぁ、彼なら用済みよ。……愛なんて知らない、信じられない、ろくでもない、可哀想な男よ。
彼は、ただのセックスフレンド、捨てられに来ただけ。」
僕の心臓は、瞬時に凍り付く。
愛を信じようとしていた僕の、最後の希望が音を立てて砕け散る。
男は僕を冷笑し、女は何もかもを見透かしたような目で僕を見つめている。
彼女にとっては、僕は孤独を埋める為の土の塊に過ぎなかった。
電話での優しい、全てを受け入れるかのような声も、
僕の心を揺さぶった発言も全て、彼女が仕組んでいたゲームだと今、気がついた。
僕は今まで彼女の主導権を握っていたように見えていた。
それが薄氷の上だと知らず……。
僕は、無言で彼女に背を向けた。
もう、何も言うことは無い。
愛は、幻想だと、脆いものだと、信じていたはずなのに。
僕の心は、愛を一瞬でも信じてしまっていた。
それは玉響な糸の緩みかもしれない。
だが、その代償はとても大きく、僕の心には永遠に
治ることの無い、火傷をつけた。
あの火は、罪悪感で僕を燃やす為の種火だったのだ。
部屋のドアを閉め、僕は階段を降りてゆく。
外はもう、雨が降っていなかった。
だが僕の心の中には一生病むことの無い、火傷を悪化させ続ける、雨をふらせている。
僕は再び、1人になった。
しかし、以前とは違う。
もう、愛を求める事さえ、できなくなっていた。
僕は、ただ歩き続ける。
愛から逃れる為に。
愛を忘れるように。
そして、愛が無いことを、自分自身に証明する為に。
心の中に、深く、散らすことの
出来ない霞が、かかり始めた。




