三夜 呼び声
エレベーターの扉が閉まり、僕は階下へ降りる。
降りていく、未だ黒い硝子を見ている自分の顔は虚ろなままだった。
女性からの最後の言葉が脳裏で黒く歪み、光る。
―「愛してる」なんて、どうでもいいの。
ただ、貴方が本当に幸せならそれでいいの、でも貴方の幸せが私じゃなかった事が、辛い。
貴方が幸せだったらそれで良かったのに。
彼女は、僕自身の幸せを。偽りの愛を求めていた彼女の唯一の真実だったのかもしれない。と
ロビーに着き、エレベーターを降りる。
自動ドアが開き、温く、肌を舐めるような空気が今はとても気持ちが悪い。
僕は彼女の願いを顧みず、期待を折ってしまったのだと。
それは違う。そもそも期待をする方が間違っている。
俺は何も悪くない。悪くない、
空には上が欠けた緩い月がぼんやり、浮かんでいる。
あの月の様に、誰かと寄り添うことが出来るのなら。
誰かが照らし、僕が反射するようにその光で人を照らせたら。
なんて絵空事を頭の中で考えている内に煩わしい気持ちになる。
もう辞めようこんな事、非効率だ。
と考えを投げ棄てた。
捨てる宛など何処にも無いと言うのに。
僕は歩き出す。
向かう場所など、どこにもない。
雨が降りそうな夜にただ存在するだけしかできない。
愛なんていらない。
そう呟いた筈の僕の心は湿りと同時に、渇きを憶えたような、気がした。
ぬるいはずの雨が冷たく感じる。一粒、また一粒と
僕の頬を濡らし始めた。
空を見上げても、月はもう見えない。
黒いものに覆われ何処か遠くに行ってしまった。
ただ、闇と雨の匂いがあるだけだった。
僕は傘を差さずに歩く、どこまでも。
この雨が僕の埃を洗い流してくれるまで。
愛なんて、愛なんて。
そう、何度も言い聞かせ続けた。
そうしなければ僕を蝕み続ける蟲達が僕を殺すからだ。
でも彼女の言葉が雨音と共に脳裏に響く。
―「愛してる」なんて、どうでもいいの。
ただ、貴方が本当に幸せならそれでいいの、でも貴方の幸せが私じゃなかった事が、辛い。
貴方が幸せだったらそれで良かったのに。
彼女は僕を満たそうとはしなかった。
ただ、僕が満たされる事を本当に願ってくれていた。
それは僕が知っていた「あい」よりも、純粋で、深く
深く、溺れる程残酷で、苦しいものだった。
僕は愛を拒絶した。
いや、愛そのものを侮辱し、拒絶した。
愛を信じることの出来ない僕の弱さを、彼女は知っていた。
そして、受け入れようともしていた。
僕は溺れるのが怖かった。愛に。
もし、この深い愛情が真実だと知ってしまったら
愛の無い、この世界で僕はどうやって生きてゆけば良いのだろうか。
雨は、次第に激しさを増してゆく。
僕は、歩く。歩き続ける。
まるで愛から逃げるように、深い永遠に触れるような道を歩くように。
その永遠に光はない。
孤独な雨が、僕をただ濡らし続けた。




