表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

カツカリーパン

作者: 人間様

 僕はここ一時間で、コメダ珈琲店のメニューを五回ほど開いている。最初の一度だけ、全ての頁に目を通し、一つ一つのメニューを吟味した。そこでカツカリーパンと書かれた欄に目を留め、少しの時間を置いてからメニューを閉じた。二度目以降は、カツカリーパンの頁を最初に開き、気の迷いを晴らすように他の頁も探索し、また最初に開いた頁に戻る。今までに頼んだ商品は、アイスコーヒーただ一つである。

 昨日の夕方のことだ。現実に生きるのが憂鬱に感じるような出来事があった。それから、夜まで感情を消化しようと努めていた。しかし、残念なことに昨日のうちに気分は晴れなかった。それは起きてからも変わらなかった。沈んだ気分と共に眠り込むこと十時間、僕は目を覚ました。気分の悪さに呼応するように身体が重かった。全ての動作がゆっくりになる。僕は起き上がり、徐々に支度を始めた。それは朝起きた時に行う起床の営みでもあり、これから逃げ出すための営みでもあった。いつも使っているバッグに、財布だとか家の鍵だとか、いつも出掛ける時に持ち合わせて行くものたちの他に、モバイルバッテリーだとか筆記用具だとか、遠出するのに必要となるかもしれないものも詰め込んだ。

 時刻は十時、僕は独りでに家を抜け出し、最寄りの駅へと向かった。向かう先は決めていなかった。とりあえず一番近くのターミナル駅に向かい、そこから遠くに行きそうな電車に乗った。かれこれ三時間くらい電車に揺られ、隣の県の端の方に着いた頃、満足して電車を降りた。小雨が降っていることも相まって、普段は嗅ぐことのない程の濃さで、自然の匂いが立ち込めていた。現実から遠いところに来たことに、僕は少し満足した。改札を通ると、見慣れない金額が引かれていた。

 駅を出て少し歩き、路側に立ち尽くした。夏の雨は冷たさを感じさせない。全身に小さな衝撃が無数に伝わってくる不快感の他には、何も感じることがなかった。しばらくして、バッグからスマートフォンを取り出して地図アプリを開いた。とりあえず、どこかに行かなくてはならない。カフェに入ってコーヒーでも飲もうかと思った。地図アプリで調べると、三十分ほど歩いた先にコメダ珈琲店があった。コメダ珈琲店まで歩いている途中で、手持ち無沙汰になることに気がついた。僕はまた、傘も差さずにその場に立ち尽くし、三分ほどしてから地図アプリで本屋の場所を調べた。どうやらここから駅を挟んで反対側にあるようで、今まで来た道を引き返し、本屋まで行った。

 見慣れたチェーンの本屋だったが、大きさだけが違った。中に入ってみると、僕の家の近くにある店よりも、書架の間隔が広く設置されていた。文庫本のコーナーまで行き、適当な本を探した。読み慣れた作家の未読の本を手に取って、レジに持っていった。人と話す時、自分の目付きがどれだけ人に不快感を与えるかが気になった。できるだけ声のトーンを上げ、小さな声で必要最低限のやり取りをした。もしかすると、今の僕くらいの目付きをした人間はそこら中にいるかもしれない。ただ、普段よりも正常な人間でいることのできない自分を気にして、そこに他者の意識を巻き込んでしまっただけかもしれない。どちらにしても、気持ちのいい人間に見えないことは確かである。

 本を買った後、また駅の方向に歩いた。四十分ほど歩いて、コメダ珈琲店の前に辿り着いた。店に入って、いつもより小さな声で「一人だ」と伝えた。念の為、人差し指をあげて人数を示した。席に着いて、メニューを開き、ドリンクの欄から今の気分に合うものを選び、注文した。読書のお供には、ホットのブラックコーヒーが良い。しかし、真夏の蒸した日にはそうもいかなかった。アイスコーヒーが届くのを見届けて、一口飲んでから先ほど本屋で買った本を開いて読み始めた。

 一時間ほど集中して読んだ後、メニューを開いた。昨日の夕方から何も食べていない。ここで何か食べるかどうか、それを決める前から食べるものに検討をつけてしまようと思った。落ち込んだ時、大抵は食欲が増幅するか無くなる。それに対し、睡眠時間は延びる一方だ。頭が回らないので、目を瞑るだけで自然に眠れる。普段よりも寝つきがいいくらいだ。そして、普段より二時間くらい多く眠ってから、重たい気分と共に目を覚ます。しかし食欲はそう単純ではない。僕は、僕という人間がどれほど単純で浅ましく、欲求に忠実だかを知っている。大抵、落ち込んで不貞腐れて、世の中というものに失望しても、美味しいものをお腹いっぱいに食べるだけで機嫌が直ってしまう。だから僕は、世の中に失望し切って厭世的な生活を送ることもできないお気楽な自分に対するささやかな抵抗として、食べることをやめるのである。勿論、単に食欲が湧かないというのも、絶食の理由の一つではあるが、もしかするとそれは僕が僕の価値観を強く信じている故にそうなるのかもしれないと思うと、少し馬鹿馬鹿しく思えてくる。そうして、僕はメニューの中からカツカリーパンを見出し、保留する。

 それから僕は、本を読みながら時々、メニューを開いてカツカリーパンの文字を目に入れ、また閉じることを繰り返した。見るたびに、どこかではお腹が空いていそうな気がして、どこかでは食物など口に入れたくないような気がした。アイスコーヒーと一緒に出てきた豆菓子を無意識に口に入れてしまって、食べることが少し身近になってしまった。すこぶる悪かった気分が、未だ後味のように心の中に広がっている。僕は今、遠い町で一人、現実逃避をしている。或いは、ただ不貞腐れている。このままこの町に留まれば、僕はいよいよ現実から足を踏み外すだろう。だが僕は、そうはならないと知っている。僕はまだ、カツカリーパンを頼まない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ