娘のクッキー
娘の郁美がクッキーを焼いていた。その背後に忍び寄りこっそり一枚頂くと、振り向き様に睨まれる。いいだろ一枚くらいと口を尖らせておどけると、もう相手にもされなかった。
たくさんあるからちょうだいよと妻が近づき手づかみでクッキーをむしり取った。あーあと思いながらも妻からもらったものを迷わずに口に放り込む。娘は何も言わないが背中が小さくて私は見て見ぬふりで通した。
その夜、あれはバレンタインデーの贈り物だと上の娘が怒りをぶちまけた。今更なに?と妻も逆ギレし出した。俺は一枚しか食ってないぞと言うと、そんなはずない!とまた怒られた。怖い怖い。妻はようやく私がもらうよと声をかけてもらったと言い出した。うそつけ、郁美は返事してなかったぞ。胸の中で言いながらことの次第を見守る。結局のところ妻が勝利した。食べ物くらいでなんだ、親に言う言い方じゃあないだろと。材料費は娘が用意していた。台所は親のものだ。扶養の元にある長女は妻にそれ以上歯向かわず自室へ消えた。
やっと俺は、あんな風にもらっても美味くないぞ。と妻に言い返した。妻は下を向き黙った。バレンタインデーに浮き立つ台所に当てられて何を焦ったのか突拍子もない行動に出た事、悪いと思いつつ長女にだけは謝れない事、それは一応わかってはいるんじゃないか、と俺は背中を向けた。長女ははっきりと言うが下の郁美は妻の行動に言葉が出ないのは気にかかる。ふたりとも優しいけれど俺も妻も仕事を抱えていて丁寧に会話をする余裕もない。それを知っていてふたりとも俺ら夫婦に強く不満を訴えた事はない。
数年後2人の娘は遠方へ嫁いで、俺はこの人と2人きりになった。相変わらず俺を無能扱いしては私がいないと何にもできないんだからとのたまっている。どっちが‥とは言わずにあれしろ、これしろと妻に仕事を頼みまくる俺。そしてその事に文句垂れながら嬉しそうな妻。出てくる酒をうまいうまいと何度もおかわりして茶の間の座布団に雑魚寝する。
何年も顔を見ていない2人の娘達は我々のこういうところが嫌だったのだろうな。きっとこんな風じゃない夫とこんな風じゃない妻をどこか遠くでやってるだろうな。鬱陶しげに妻の横顔をみていつからこんなだったか思い出そうにもリウマチが痛くて無理だった。うまいものもそうじゃないものも食べ過ぎた。焦って焦って生きてきた。酒も山ほど飲んだ。それだけ働いてるんだと威張り散らした時もあった様に思う。
娘が誰かに焼いたクッキーは美味しかった。もっと砂糖を入れた方が男は喜ぶんじゃないかなと思った。アイシングと言って無地の小麦色のクッキーの上に細く絞った砂糖でメッセージを入れる事を後から長女が教えてくれた。きっと待ってたらパパにもメッセージ付きのが来たんだと思うよ。私はもらったからね。と苦笑いしていた。妻は知らないだろう。口に入れば皆同じだとやっかみで笑いそうだからな。古ぼけた一軒家に日差しが差し込みラジオから呑気そうなおっさんの声がして俺は俺の作った幸せの中で座布団枕に寝転がる。汗ばんだ肘に毛の柔らかい雌猫が頬擦りするのであっちいけ!とよけた。じゃあ行ってくるぞと戸を閉めてひとりで出かけた。何年も何年もここに暮らした。出掛けた時が心休まる至福の時だ。そんなものさとお互いに腹をくくり明日もここで年を取るのだ。
俺も俺の妻も手作りのアイシングクッキーなんて良いものが口に運ばれて来ないだろう。娘が運んできた第二の人生をなんだと思って食い荒らして来ただろう。俺は酒で洗い流し、妻は睡眠導入剤を飲んで今日は終わる。今日も明日も明後日も同じ様に終わる。