蛙は消えた
この家に移り住んだ頃、裏側は田んぼだった
もうこの辺りも田畑は消えつつあり近所でもここだけが田んぼだった
毎年、春になるとこの田んぼに水がはられる
家のすぐ裏に農業用水が出てくる蛇口がありそこから数日間水が放出される
我が家には水が流れる音が響き渡った
殺風景な家の周りの景色さえ見なければそれは避暑地にいると誤解できるぐらいの気持ちのいい水の音だった
日に日に田んぼが潤ってくる
濡れたような状態が、ぬかるみになってくる、それもこの農業用水の蛇口の辺りから徐々に広がっていく
それが全体に広がるころには、蛇口のあたりは水たまりになっている
水たまりが広がり池のようになっていくのだが、だんだんと夜に聞こえる音が大きくなっていく
冬の間にはまったく姿を見せなかった
それもどこにいるのかも解らなかった生き物が活動を始める
あるものはグワッグワッ、あるものはゲロゲロ
気温の上昇とともに大合唱が始まる
最盛期にはそれはテレビの音が聞こえないぐらいの合唱になる
寝る時も騒音の苦情を言いたいぐらいの音量だ
しかし、その声を聞いていると、こんな喧騒とした街にも風情を感じるものだ
梅雨時に雨が降ると、その合唱はさらに大きくなる
そしてその声の正体は田んぼを抜け出して、反対側にある家の玄関側にやってくる
ある時は家の周りのフェンスの全ての支柱の上に一匹ずつ並んでいたこともあった
家の花壇にも忍び込んでレンガの塀に張り付いているものもいた
一番驚いたのが3階のベランダで姿を見たときだ
こんなところまでどうやって登ってきた?
知り合いにその話をすると「すごいジャンプ力ですね!」と言われたが笑い話でしかない
家の壁をよじ登ってきたんだろう
それも毎年数匹見かけた
その田んぼはご老人が生産緑地として耕作していたものだった
その家に移り住んでから10年ほど経った時から、田んぼは耕されなくなった
なんでも高齢になりすぎたのでもうできなくなったそうだ
耕されない田んぼの状態が数年続いた
それでも暖かくなると小さいが合唱は聞こえたし、我が家にも訪問してくれた
ある年ついにその土地に重機が入った
どうやら地主は売ったらしい
その後あっ言う間に14軒の家が建った
我が家の裏から田んぼが消えて、その辺りと同じ風景となってしまった
その年からあの大合唱は聞こえなくなった
最初の数年は寂しかった
しかし、慣れとは不思議なもので、今はあの声が聞こえなくても何も思わなくなった
ただ、どこかの田んぼであの合唱を聞くと、思わずニヤッとしてしまう
家の裏にいた蛙たちはどこに消えたのだろう?
どこかで子孫が生きていてほしいと願う
今は蛙の声に代わって、2匹の犬の声が家の中に響いている