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「…やあ、今日も天気が良いね」
いつもの花畑。いつものようにアンズが座り、にこにことジェイクを迎える。足元にはふかふかのそれ。ジェイクも普段通り荷物を抱えて横に座る。一見何ら変わりのない日常。
変わったのは自身の胸中だけ。
はくはくと口を開き、━━あそこの木もお花が咲いたのよ。多分、そんな内容を告げるアンズの唇。ジェイクは笑んで頷きながら、そっと紙袋を傍に下ろした。中に入れられた水筒の氷がカラン、と音を立てる。
「…飲むかい? ああ、今日は飴もあるんだ。どっちが先が良い?」
首を傾げる彼女に、小さな紙袋を出して中身を見せてやる。琥珀色に固められた、大小様々な輝きが顔を覗かせた。
蜂蜜だよ、と言いながら一つ手渡す。はちみつ。復唱して、ぱくりと咥えた。
いつものサンドイッチより甘いそれに、驚いたように目を開ける。もごもごと口を動かすアンズに、沢山あるからゆっくり食べて良いよ、と紙袋を手渡した。ありがとう。相変わらず聞こえもしないのに彼女がそう返したのが分かる。
彼女は意外とよく食べる。
こうして逢瀬を重ねてはいるが、アンズについてジェイクが分かっている事は驚くほど少ない。
以前簡単な質問は繰り返したが、それから進展した分かったことなどほぼないに等しいし、未だに夜はどこでどう過ごしているのかは毛玉がそれを知るのを良しとしていないようで、彼女は黙って首を振るだけだ。
サンドイッチを二つ三つぺろりと平らげて、その後果物も皮を剥いて差し出してやればそれも渡された物はほとんど胃に収める。それ以外にも、適当につまめるようにと用意したクッキーやゼリーにドライフルーツ、今日のような飴も次々と口にするさまを見ていると、自分が居ない時には何を食べているのかと心配させられる。
持ち込んだ物で、余った物は夜にでも食べるようにとそのまま置いていくようにしてはいるのだが、結構置いてきたはずのドライフルーツなどの日持ちする物でさえ次に来た時には欠片も残さずなくなっているところを見ると、寝床に持ち帰っているのか直ぐにぺろりと食べてしまっているのか。どれだけ残す、という考えはあまり持っていないのだろうか。
「…今日はお前にも用があるんだ」
追加して舐めているのか、両頬を膨らませてにこにことしているアンズをうっかり見てしまう。
え、何それ可愛くない。やばーい。
リスより遥かに愛らしいその姿に、ジェイクの意識が全て持っていかれそうになる。街行く若い女性か元男性現女性詳細不明、が小動物でも目にした時のような文句が不意に脳裏に浮かんだ。
拳を握って深呼吸する。俺は騎士、俺は騎士。今日は大事な用があってここに来た。
そうして動悸が治まって来た頃、ジェイクはアンズに━━その隣、少し下。見慣れた毛玉へと手を伸ばした。
『今日は誰もいないね』
無人の花畑。可憐な声がりんと響く。
毛玉を掴んだ━━接触した途端、思った通りだった。視点ががらりと変わり、一瞬の暗転ののち広がったのは前回と同じ光景で、アンズの声だけがふんわりと降りてくる。
『何だったのかなあ。━━え? そう、なの』
毛玉は彼女の問いになんと返したのか。そしてこれは、いつの会話なのか。
尽きない疑問の答えを探るべく、聞き漏らすまいとジェイクは耳を澄ませた。
『ちいちい聞こえるね。前も聞いたね。━━渡り鳥。なあに、それ』
『ふうん。今だけなんだね、よろしくね』
『ふふふ。そうだね。ああ、日が暮れるよ』
ゆるやかに時が過ぎる。ジェイクは緊張と高揚を覚えた。━━ああ、やはりこの声は、中毒性がある。
毛玉や獣に話しかける声が続き、幾度かおはよう、おやすみ、の挨拶が聞こえた。焦れ始めた頃、とうとう待ちわびたその瞬間が訪れた。
『この前の人だね』
『名前。ジェイク。━━人間、じゃないの。そう。ジェイク。よろしくね、ジェイク』
まるで頭を撃ち抜かれたような衝撃だった。
歓喜の渦。暴力的なまでにせめぎあうそれは一瞬で爆発したように膨れ上がり、ジェイクの内を駆け巡る。
(━━アンズに名前を呼ばれた!)
顔に熱が集中したのが分かる。自分はここまで純情な人間だっただろうか、と自問する。こんな事は初めてだった。…名前を呼ばれただけで、腰が砕けそうになるなんて。
容姿も言動もその声も、幾ら好みのど真ん中をぶち抜かれたとは言えこんなことが有り得るのかと問う。応える声は当然なかった。
そうしている内に、悶絶しているジェイクを置いてけぼりにしてどんどん会話が進んでいく。二度目に会った時の、質問を何度もした時の答えだった。
『わたしはずっとここに居るよ。これも一緒』
『街、は、なあに? わかんない。知らない』
『これはずっと一緒だよ。当たり前だよ』
『━━ううん。━━ううん。━━うん、そう』
『これ? は、これ、だよ。━━よく、わかんない…ああ、違う? ━━ううん。━━うん』
きちんと答えてくれていたのだな、と感動すら覚える。あの時手探りで開始した職務質問のようなそれに、戸惑いはすれど嫌がる様子も見せずに答えるアンズの声に、ぎゅう、と胸が苦しくなる。
彼女に会うほどに、その声を聞くほどに、どんどんジェイクの胸の中にあるアンズの為のスペースが広がっていく気がした。
彼女でいっぱいになった時、自分はどうなってしまうのだろう。ほんの少しの不安が過って、ジェイクはそっと目を閉じた。暗闇が優しく見守っていた。