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「俺はジェイク。街で警備隊の仕事をしている。君の名前は?」
鳥の鳴き声が聞こえる麗らかな木漏れ日の下、座り直したジェイクは少女の顔をじっと見た。
葉の擦れる音や湖で魚が跳ねる音、そうした自然の音を聞いているのも心地が良いものだが、そろそろ彼女の話を聞きたくなったのだ。毛玉がどういうものであるのか、そもそも彼女はどこから来た何者なのか。
まだ彼女は一言も発していない。
「…、…」
「ん、どうした?」
はくはくと彼女が口を開ける。真っ赤な舌がちろりと覗き、喉が動くのが分かる。
しかしジェイクの鼓膜を揺らすものは何もなかった。
「…もしかして、君は…」
こくり、首肯して、またはくはく。
困ったように笑う彼女を、慰めるように毛玉がその足の上にふわりと着地した。
花畑の中央の、毛玉と共にいる少女は、声を出すことが出来ない。
ジェイクは耳の後ろをぽりぽりと掻いた。
「では君は、子供の時からこの…毛玉と一緒に居るのか?」
ふるふる。
「最近?」
ふるふる。
「ええと…生まれた時から?」
こくん。
耳は聞こえるようだったので、イエスノーで答えられる質問で彼女から情報を得る。
分かった事は、街には住んでいないこと。
森に住んでいること。
毛玉とはずっと一緒にいること。
家族はおらず、毛玉以外のものとは住んでいないこと。
生まれた時から毛玉と一緒だったこと。
そして、人に会うのはジェイクが初めてだということ。
「なんということだ…」
ジェイクは目を抑えて俯いた。
彼女は恐らく、両親と死に別れたか、捨てられたのか。この森に。
その時のショックで声が出なくなったのだろう。
可哀想な少女に親身になったのは、人間ではなくこの謎の毛玉だけだったのだ。
だから毛玉もきっと、彼女の親のように振舞い、近付く者を威嚇している。
この毛玉は何なの? という問いには答えるのが難しかったのか━━そもそも質問が悪かった━━、友達? ペット? と数度繰り返し、彼女が曖昧ながらも頷いたのは「親?」と尋ねた時だった。
こんなにも可憐で、儚げな少女が、人間の庇護を受けることもなく、魔物を親と呼んで森に一人ぼっちで住んでいるなんて!
ジェイクは衝撃を受けた。美しくも哀れな少女、彼女は自分の手で守ってやらねば、と固く決意をした。それが騎士道精神だったのかはさておき。
「…君は━━、ああ、名前が聞けないのは不便だな。字は書ける? …そうだよな、ごめん。仮にだけど、俺が名前を付けても構わない?」
そもそも名前が存在するのかも分からない少女は、口の動きだけで、いいよ、と返した。
「何と呼ぼう…━━そういえば、腹は空いてないか?」
気付けば長く質疑応答を繰り返してしまった。
がさがさとパン屋の袋を漁るジェイクを、少女はただ眺めている。
「昼飯も持ってきているんだ。こっちが野菜のサンドイッチ、こっちが肉、こっちがフルーツ…ジャムか? 分からんな。甘いやつだな。好きな物を選ぶと良い」
説明を聞きながら少女はじっと袋の中を覗いていたが、黄色いサンドイッチを見付けた瞬間に目を輝かせたのが分かり、ジェイクは思わず笑みを溢した。
「それは杏のコンポートだな。遠慮しないで食べてくれ」
黄色く輝く果実がこれでもかとぎっしり詰まったサンドイッチ。砂糖で煮られたそれは見るからに甘そうで、少女の目を惹き付けたようだった。
少女がかぷりと食らい付く。咀嚼。むぐむぐと動く丸い頬を眺めていると思わずジェイクの口元が緩む。
気に入ったのか、飲み込むとすぐに少女はジェイクに満面の笑みで感想を返した。出ない声で何事かを告げる。表情からして好ましい言葉ではあるようだった。
「口に合ったなら良かった。甘い物が好きならどんどん食べてくれ。俺はこっちをいただくから」
はみ出る程の肉が挟まれた豪快な一品を手に取ると、少女はそれをちらりと見ただけでまた杏のサンドイッチに口を寄せる。甘い方が良い、そういう事かなと納得してジェイクもかぶり付いた。
実に静かでゆったりとした、長閑な昼食であった。
「…名前、アンズとでも呼んで構わないだろうか?」
一頻り食べ終わり、また茶を注ぐ。
少女は甘い物が気に入ったようで、それから苺やベリーのサンドイッチにも手を伸ばしていたが、一番食い付きが良かったのはやはり最初の杏の物だった。
一応果物も差し出してみたがさすがに満腹になったようで、オレンジの表面を細く白い指で撫でるだけだったので、ジェイクは何だかあらぬ妄想をしてしまいそうになりやんわりと取り上げた。
毛玉にも同じくあれこれ差し出してみるも、こちらは結局どれも口にする事はなかった。肉も野菜も果物も選ばなかったので、人の手から貰ったものは食べないのかもしれない。
ジェイクの中で、彼女は甘い物が好き。特に杏。という事項がインプットされた。
「安直で悪いんだが、あだ名のような物だしな。俺しか呼ばないし」
耳の後ろを掻きながら━━困った時にしてしまうジェイクの癖だ━━呟くと、彼女は初めてジェイクの手に触れた。
きゅっ。にこにこ。
細い指が日に焼けた豆だらけの無骨な指を握り、また何事かを訴える。
気に入ったよ、ありがとう。
小さな唇がそう動いたように見えて、ジェイクはもごもごと、良かった、と返した。
真っ赤な舌が口の端に付いた、甘いジャムを舐めとるのが見えた。