16
がさがさと草を踏みながら戻った二人に、毛玉がくるりと向き直る。
晴れやかなジェイクの顔と、困惑しながらも手を引かれるままのアンズに、やや不審そうにしながらも毛玉は声を掛けた。
「話はついたのか?」
「ああ」
不安そうに見上げるアンズに、安心させようと笑顔を向けてしっかりと頷く。
彼女を失うのは嫌だ。彼女を助けるために記憶を差し出してその命を繋ごうとも、その結果彼女が見知らぬ誰かに同じように笑顔を向けるのを想像すると、吐き気を催すほどの嫌悪を覚えた。
自分が思っていたより狭量であったことに驚き、可笑しくすら思えてくる。
「…それで、決心はついたのか?」
「決心。そうだな。覚悟はしている」
アンズが強く手を握る。ジェイクに忘れられる恐怖、悲しみ。指先に籠る力は、それを想像したアンズの胸中をそのまま示しているようだった。
宥めるようにジェイクは親指でそれを撫でる。
「彼女をもらい受けたい。その覚悟ならばとうに充分なほど出来ている」
そうして放たれたその言葉に、毛玉は絶句しているかのようにしばし固まった。
しっかり十秒経ったあとで、重力に負けたか如くへにょり、とその形を歪ませる。
「…それは、わたしの一部である、と言ったはずだが」
「それは聞いた。お前は彼女を、これら、と言っていたな。アンズもここで生まれたと聞いた。ここに来るまでは違うものがお前の役に立っていたようだと。彼女はここに置いて行ってくれ。次の土地でまた別の疑似餌を作り出すと良い」
あっけらかんとそう述べたジェイクの顔を、ぽかんとアンズが見上げていた。
驚きに思わず弛んだ彼女の手を、今度はジェイクが強く握り返す。
まさかそう言われると思っていなかったのだろう、毛玉は困っているのか憤っているのか━━両方かもしれない、ざわざわとその毛先を波立たせる。
「……お前がそれを気に入っているのは分かっている。わたしの技術も捨てたものではない、どこがお前にそこまで刺さったのかは分からないが」
「じゃあ、良いのか?」
「良い訳がない。お前たち人間には見えないだろうが、わたしとそれは繋がっている。生命線のようなものだ。それは、わたしから離れれば衰弱して消えるだろう」
本体であるのはあくまでわたしで、それは尻尾のようなものだからな。
にべもなくそう告げた毛玉に、ジェイクは負けじと食い下がった。
ただの鍛治屋のせがれが、多数の貴族に混ざり騎士学校への入学を果たし、嫌みや分かりやすい嫌がらせにも耐えて無事騎士への道を勝ち得た。
それは幼少期からずっと変わらない、ただ一つのジェイクの心。信念。
絶対に、諦めない。
相手を受け流し、ねじ曲げてでも自分のしたいようにする。そうやって今まで生きてきたのだ。
魔物にだって、負けはしない。
「生命線か、なるほど。お前と繋がっていると」
「そうだ。例えお前にそれをやったところで、それは消えるだけだ。どうにもならん。目の前で弱っていく様を見届けたいのか」
「お前としか繋がらないのか?」
問い掛けたジェイクに、毛玉がぴくりと反応する。
アンズは身動ぎする事もなく、ただじっとそれを見届けていた。
「例えばだ。お前とのその繋がりを切り、俺と繋ぎ直す。そういう事も、出来るんじゃないのか」
「お前は…」
押し黙る毛玉。今日は話しているだけで、持参した食糧には飴しか手を付けていない。
ジェイクはにわかに喉の渇きを覚えた。今頃水筒の氷は融けてしまっているかな、と思う。
「俺は、アンズと生きられるならお前にどんな代償を捧げても良いと思っている。アンズが他の人間にこの愛らしい笑顔を向けるなど耐えられない。例え忘れた後でだって嫌だと思っている。アンズさえ傍に居るのなら、俺がどうなろうとも構わない」
「…わたしに、そんな交渉を投げ掛けてきた人間は、お前が初めてだ」
ため息をつきながら毛玉がそう呟く。
ぺたりと寝かせた毛を靡かせながら、ふわりと浮き上がった。
「どんな代償を捧げても良い。それは真か」
「確かだ。アンズさえ居ればそれで良い」
「…わたしは、心を食らえどそのような事はしたことがない。失敗するかもしれんぞ」
「…それでも、ただアンズの記憶を失って、彼女が俺から離れてしまうよりはずっと良い。やるべき事は全てやりたい」
「お前はどうなんだ」
毛玉から不意に水を向けられたアンズは、ぴくりと指先を動かした。
手のひらに汗ばんだそれは、最早どちらのものなのか判別がつかなくなっていた。
「…」
「ふむ。…そうか」
「…、…」
「…何だと?」
「………」
「…お前も言うようになったじゃないか」
早口で告げるように動かされたその唇は、相変わらずジェイクには読み取れない。ただ、呆れたように毛玉が、全くお前たちはお似合いだ、とぶつぶつと言ったのを見るに、ジェイクにとって悪い内容をアンズが言ったとは思えなかった。
にこり、アンズがジェイクを見詰める。清楚で可憐な、無垢な笑顔を見せていた彼女は、今はどこか強かな表情を覗かせていた。
「…では、やってみよう」
「良いのか!」
「…仕方あるまい。お前はただ食わせてはくれんようだ。とにかく急ぎ食わなければわたしもそれも共倒れだ。…それよりは、確実に食える方を優先した方が良いと判断した」
嫌そうに毛玉が言う。なげやりな声。食事さえ摂れればもうどうでもいいのかも知れない、とジェイクは思った。こちらも、アンズさえ手に入るならどうでもいいと考えているので、その点ではお相子だ。
「先に代償を貰おう。それからお前とそれを繋ぎ直し、新しいそれを作る事にする。それで良いか」
「順番はどうだって構わない。代償は何にするんだ?」
「そうだな。お前が一番失いたくないものだ。それを一番に必要とするなら代わりに今持っている一番大事な物を支払う。それが道理だろう」
「一番失いたくないもの…」
「わたしが食うのは人の記憶と感情だ。よって、お前が一番失いたくない記憶と感情をいただく事になる。今までのように普通の食事であれば我々のことだけで済んでいたが、代償となれば話は変わってくる。全く余計な仕事を増やしてくれたな」
それは今の自分にとって、アンズに対する感情の全てではないのか。
結局アンズの事を欠片も残さず忘れてしまう、と今更ながらに気付いたジェイクは、話が通じたって毛玉もやはり魔物であるのだと奥歯をきつく噛み締めた。