地下街
俺の勤めている会社は、駅から徒歩10分くらいの場所にある。
最寄りの駅は地下鉄。
その駅には直結する地下街があった。
地下街は便利で、少し遠回りになるけど、そこを通って職場の近くに出ることも出来たから、雨の日なんかは地上の通勤路を使わずに地下をよく使っていた。
地下街は駅の付近は割と店も多くて賑わっているけど、駅から離れるほどにシャッターの降りたままの店が増えていく。
そういうエリアは人気もなくて、照明も通路の蛍光灯だけだから、かなり薄暗い。
俺が使ってた地下の通勤路にも、そんなエリアがあった。
ところで俺はまだ、新入社員に毛が生えたような若輩サラリーマンだ。
でもこのところ、ようやく会社でも重要な仕事を任されるようになってきていた。
やりがいは増したけど、残業も増えた。
なかなか大変だ。
遅くまで働いて終電で帰って、始発でまた出社する。
このところは、そんな事もしょっちゅうだった。
その日は雨が降っていた。
いつものように遅くまで働いた俺は、雨を避けて地下街を通り、終電に間に合うかヒヤヒヤしながら歩いていた。
シャッターの降りた薄暗い地下を、カツカツと靴を鳴らして歩いていく。相変わらず人気はない。
いつも思っていたのだが、この辺りはなんとなく不気味な感じがしていた。
ぞくぞくするというか、なんというか……。
とにかく気味が悪いのだ。
ちなみに俺は霊感がかなり強い。
霊も見えるし、ぶっちゃけオカルトマニアだ。
学生時分には当時よく連んでいたオカルトに詳しい友人と、興味本位で心霊スポットなんかにも足を運んでいた。
それも結構頻繁に。
だからなんとなく分かるのだけど、この辺りの空気は普通とは違っていた。
濁っているように感じる。
特にその日は、空気が重く感じられた。
ひんやりとして、襟首に纏わりついてくる感じだ。
歩いているとなんとも言えない不安に襲われる。
これは何か、よくないものが出るんじゃないか?
戻って地上の通勤路を使おうか。
とはいえ終電の時間もあるし、雨だって降っている。
簡単に引き返す訳にはいかない。
少し歩けば賑やかになってくるし、とにかく早く通り抜けよう。
そう思って早足になったとき、ふと気付いた。
……手前のほうに誰かがいる。
通路左手のほうだ。
とある店の、降りたシャッターの前に、存在感の希薄な髪の長い女が立っている。
暗い通路に白い服がぼうっと浮かび上がっている。
俺はすぐに気が付いた。
こいつはこの世のものじゃない。
ここで何をしているんだろう?
気にはなるが、あまり興味を持たない方がいい。
経験上、こういうのは無視して立ち去るのが一番なのだ。
俯向き加減で女の横を通り抜ける。
すると背中がぞわっと怖気だった。
白い服の女を、ちらりと横目で流し見る。
女はこちらを見ていた。
前髪が長くて、顔は口元しか窺い知れない。
でもわずかに覗く口元は、唇が爛れている。
俺はぞくっときて、すぐ目を逸らした。
なんだこいつ?
絶対関わったらいけないやつだ。
そう思って、逃げるみたいにその場を立ち去った。
一夜明けてから、俺は始発でまた会社に向かった。
昨日から降り続いていた雨はますます激しくなっていて、豪雨といってもいいくらいになっていたから、俺はまた地下の通勤路を使って会社に向かうことにした。
昨日の霊は気になるけど、一晩たってるんだし多分大丈夫だろう。
それに朝だしな。
そんな風に考えた俺は愚かだった。
薄暗い地下道の先に、あの女がいた。
場所は昨夜とまったく同じ。
思わず固まってしまう。
遠くの女は身動ぎひとつせずに、ずっと俺に顔を向けている。
やはり髪のせいで口元しか見えない。
固まっていると、俺の方に女が近づいてきた。
歩いている風ではなく、ゆらゆらと揺れながら側にやってくる。
思わず後ずさった。
どうしよう?
これ逃げた方がいいよな、絶対。
そんなことを考えていると、女がぴたりと止まった。
なんだ?
振り返ってみると、遠くで老婆が手招きしている姿が見えた。
あの人が来たから止まったのか?
とにかく今がチャンスだ。
俺は、手招きする老婆のもとに逃げ込んだ。
「おぬし! あれが、姉さまが見えたのか!」
見えると答えると、老婆の表情が厳しくなった。
「いいか? おぬしは魅入られてしまった。じゃが、まだ間に合う。まだ引寄せられてはおらん。だからもうおぬしは、絶対にここを通ってはいかんぞ!」
老婆は何度も俺に念を押してから、去っていった。
あれからしばらく経った頃。
その日俺は、仕事帰りに同僚と酒を飲んでいた。
時刻はもう終電間際だ。
勘定を済ませて店を出ると、いつの間にか雨が降っていた。
傘は持っていない。
買いに走ろうにも、近くにコンビニはないし、そんな事をしていては終電を逃してしまう。
仕方がないので俺は、地下街を通って帰ることにした。
女の霊や老婆のことは気になったが、あれから数ヶ月経っている。
さすがにもう大丈夫だろう。
それに念のための保険もカバンに入れたままだ。
大丈夫に違いない。
酒に酔ったあたまで、根拠もなくそう考えてしまった俺は、地下街に向けて歩きだした。
地下を歩く。
リノリウムの床にカツカツと足音が反響する。
辺りは薄暗い。
あの女の霊が立っていた場所はもうすぐだ。
蛍光灯の頼りない明かりのもと、シャッターの閉まった店の通路を、おっかなびっくり歩いていく。
遠くにあの場所が見えてきた。
……いない。
やはり、もう大丈夫なんだろう。
女の霊はいない。
胸を撫で下ろす。
さぁ終電に間に合うように帰ろう。
早足であの場所を通り抜けて、ほっと息を吐いた。
そのとき。
「……ねぇ」
微かな声が聞こえた。
ぞくりと全身の肌が粟立つ。
振り返ると真後ろ、……目と鼻の先にあの女が立っていた。
こいつはまだここにいたのか。
俺のことを狙っている。
あまりの恐怖に息が出来ない。
思わず腰が砕けて、尻餅をつく。
女の口元は相変わらず爛れていた。
腐ったような匂いが漂ってくる。
不意に女の霊が、長く伸びた前髪をかき分けた。
隠されていた顔が露わになる。
たまらずに俺は、ひっ、と声を漏らした。
腐った唇に、削ぎ落ちた鼻。
顔全体が焼け爛れている。
右の眼球が潰れていた。
落ち窪んだ左の眼窩からは、よくわからない液体が垂れていた。
これはまずい!
こいつ悪霊だ。
それも飛び切りたちの悪いやつだ!
異様な風体の女が、腰を抜かした俺に手を伸ばしてくる。
捕まったらどうなるかわからない。
俺はカバンを前に突き出して、なんとかしようと足掻いた。
すると悪霊の手がぴたりと止まった。
どうしたんだろうか。
ふと思い立つ。
カバンの中には、老婆に持たされた魔除けの札が入れっぱなしだったのだ。
とにかく今がチャンスだ。
俺は立ち上がり、必死になって走って逃げた。
逃げ延びてから確認すると、カバンに忍ばせておいた魔除けの札が真っ黒になっていた。
おそらくこれのおかげで逃げ切れたのだろう。
俺は老婆に感謝した。
あの女がどうして悪霊になったのか、いつからそこにいるのか、老婆との関係はどういうものなのか、それは結局わからないままだ。
でも知ろうとは思わない。
安易に悪霊を知る行為は、危険極まりない行いだからだ。
今回狙われたのは、たまたま通りがかった俺が『見える人』だったからだろう。
逃げられたのも、本気で憑かれてはいないからだ。
だがもし悪霊と深く関わってしまうと、今度はたまたまではなく必然として、あの場所に導かれてしまうかもしれない。
そうなると、もう逃げられないだろう。
悪霊とはそれほどに恐ろしいものなのだ。
もし本当に憑かれれば、一生を棒にふる。
俺はオカルトマニアとして心霊現象は好きだが、悪霊だけは勘弁だ。
だからあれから、あの場所は通っていない。
老婆には礼を言いたいが、もう俺があそこに近づくことはないだろう。