あたたかな手のひら
いつも泊まっている宿に行ってみると入口のところにヴィオラが突っ立っていた。その隣にアイリスは見当たらず彼女は一人で壁に背を預け腕を組んだまま考えごとをするように真剣な顔で地面を見つめていた。
「ヴィオラ」
「ああ、ユーリ。どうだった?」
「……よくわからなかった。ナーガの体質に関係する話だったんだけど」
「なんて言われたんだ?」
「フェアリクス病を発症するかもしれないって言ってた」
「なんだそれは?」
「魔導士の職業病みたいなものだよ。身体の中にフェアリーがたまって結晶化してる可能性があるって言ってたんだ。いますぐどうこうなるものじゃないけど、ほっといていいものでもない」
「だがナーガは魔導術を使えないはずじゃなかったのか?」
「……だからよくわからないんだよ。俺が見てても魔導術を使ってる様子はなかったし」
「そうか……」
「……あいつに訊ければ話は早いんだけどな」
いつになったら会わせてもらえるのだろう。もしもこのままフェアリクス病と診断され施設へ入院するだなんて話になってしまえば。
その先の未来はあまり考えたくなかった。
「ユーリ、食事に行かないか?」
ふと暗い気持ちに陥りそうになっていると突然ヴィオラが明るい口調で提案した。顔を上げたユーリの肩にぽんと手を乗せて小さくにこりと笑みを浮かべる。
「なにか食べよう。お腹空いただろう」
「どこかでなくしたらしくて食欲が見当たらないんだ」
「そう言うな。おいしいものを食べれば元気も出てくるさ」
「……それはいいけど、アイリスは?」
「一人にしてほしいんだとさ。わたしたちだけで食事を済ませてきてくれと言われてたんだ。帰りになにか買っていってあげよう」
「……そうだな」
結局朝からなにも食べてなかったが胃の中にぎっしりと綿を詰めこまれているように鈍く重たい感触があって空腹は感じなかった。けれど無理やりにでもなにか口にしないといけないだろう。
二人は宿を離れると噴水のある中央広場まで出ることにした。そこから枝分かれした通りを適当に歩いて食事のできる店を探していると不意に喧噪を抜けて鐘の音が鳴り響いてくる。
町の西部にある大聖堂から聞こえてくる音だった。普段も朝に時間を知らせる合図として鳴らされているがこんな中途半端な時間に聞くのははじめてだ。
連続して四回鳴ったあとで間隔を置いてからまた四回。周りで歩いていた通行人たちも足を止めると話すのをやめて怪訝そうに聖堂の方を見ていた。
「なんだ?」
「避難勧告の合図だと思う」
やがてさっきとは少し空気の違うざわめきが起こりはじめ、営業をしていた店からもちらほらと客や店員たちが現れては様子を窺うように建物の向こうへと視線を投げかけていく。
それから間もなく周りにいた通行人たちの一部が仲間内で不穏な気配を露わにしながら説明を求めるためか聖堂の方へと歩きだしていった。どこか緊迫した雰囲気が少しずつ漂いはじめ、他の人たちもそれにならって徐々に通りへ人が溢れだしていく。
あの鐘がなにを意味しているのかこの町の住人たちは理解しているらしく、その様子からかなり緊急を要する知らせであるということがユーリたちにも見て取れた。
「店で食事をするのはやめた方がいいかもしれないな」
「追いだされても嫌だしな。いまのうちに食べるもの買っておくか」
ユーリたちは聖堂に向かう人波とは反対に向かって歩きだすと近くでやっていたパン屋でサンドイッチを購入した。接客をしてくれた店員も不安そうにしながらどうするべきか決めかねているようであり、ユーリは早めに店仕舞いをして避難の準備をするよう勧めた。
中央広場まで戻ってみると坂の上にある住宅街の方からもぞろぞろと住民が歩いてきているのが見えた。先ほどまで広場にいた大勢の人たちの姿はほとんどなくなっており、非常事態を思わせる異様な光景がそこかしこに少しずつ現れはじめている。
これまで奴が起こしてきた事件では確認されていなかった事態が生じて軍も重く受け止めているらしい。なぜこの町でだけという疑問が浮かんでいるだろうが予想よりも早く転生者の襲撃に備えてくれているようだった。
ただ、この様子だと宿も出ていかなくてはならないかもしれない。泊まる場所についてはなんとかするとして早めにアイリスを迎えに行った方がよさそうだ。
「怖くないのか、ユーリは」
これから逃げなくてはならないかもしれないというのに空模様は重く、分厚い雲を見上げて一様に苦い顔をして歩く人たちを眺めていたヴィオラがぽつりと呟くように問いかけながらこちらへ振り向いた。
「怖いよ、もちろん」
「ほんとか?」
「この状況で平然としてられるような奴は人としてどこか壊れてる」
「だがわたしには落ち着き払っているように見えるぞ」
「別にはじめてじゃないしな、こういうの。びびって青ざめることに飽きてるだけだ」
「……ユーリは魔王と何度も戦ったことがあるんだったな。とても十六やそこらの子どもとは思えない肝の据わりっぷりだよ」
「ヴィオラこそこういう経験ないだろ」
「これでもエルフだぞ?」
「意味がわからん」
「歳を重ねれば多少のことでは動じなくもなるさ。それに、ここには守らなければならないものがたくさんある。彼らのためだと思えば勇気なんていくらでも湧いてくるのさ」
ヴィオラはまるで我が子を見守る母親のような眼差しで通り過ぎていく人たちを見つめていた。
人を愛するエルフ。その瞳に宿る光は転生者よりもよっぽど救世主らしい意志に満ちていた。
「……悪いな。ほんとなら俺一人で片づけなくちゃならない話なのに」
「ずいぶん水くさいことを言うんだな」
「そりゃそうだろ。俺のせいでみんなに迷惑かかってるんだから」
「あまり関心しないな、そういう自責は。出会って数日で気を許せとは言わないがもうわたしたちは仲間なんだぞ?」
「言葉で繋いでるだけで一緒に戦わなくちゃならない理由があるわけじゃない。見過ごせない事情につけこんでるだけだよ」
「……ユーリは誰かと繋がりを持つことに抵抗があるみたいだな」
脈略もなくヴィオラがそんなことを言ったのでユーリは思わず間の抜けた声を漏らして相手を見返した。
「なにか嫌な思い出でもあるのか?」
人波に向けられていたヴィオラの優しげな瞳がユーリを映し、けれどその夕暮れから夜の闇へ変わろうとする前の空のような澄んだ青い瞳の底にほんの微かな寂しげな色を見た気がした。
「……別に。こんなことに巻きこむのが悪いと思ってるだけだ。ばかでかい貸しだとかとびっきりの弱みでも握ってれば心置きなく頼めるんだけどな」
「……つらくならないか。そうやって一人で抱えこんでばかりじゃ」
心の中を見透かされてしまうような気がしてユーリは広場の真ん中にある噴水へ目を逸らしていった。穏やかに打ち寄せる潮騒のような音を立てて飛沫を上げていく水の中に呼び起こされた記憶の残像を溶かしこんでいく。
「一人だなんて思ってないよ。みんなの力がなくちゃどうしようもできない」
「でも、どこかで突き放そうとしている。口ではそう言っているが最後は自分の力だけでなんとかしようと考えている。わたしにはそう見えるよ」
「……嫌なんだよ、そうやって誰かのために死んでいく奴を見ていることしかできないのは。本当は誰の力も借りるつもりなんてなかったんだ」
だから、あのときの記憶を境にしてユーリは一人で戦うことを決意した。失わなければ冷たさを感じることもない。仕方のない犠牲があることを理解していても受け入れることまではできなかった。
「いいんだよ、自分の力だけで歩こうとしなくても」
まるでなにかの詩を読むように。緩やかな声でヴィオラが言った。
「たった一人では寂しいし疲れてしまう。時には誰かに寄りかかってもいいんだよ。そのことでたとえこの先なにが起きたとしてもわたしはユーリを恨んだりしない。なぜだかわかるか?」
「自分で決めたことだから?」
「出会いの偶然を奇跡だったと信じ続けたいからさ。ユーリには感謝しているんだぞ?」
「感謝されるような覚えがまったくないんだけど」
「居場所をくれたんだよ、ユーリは。エラストラにとって人間の世界というのはお前が思うよりも生きていくには窮屈な場所なんだ。歌を利用しようとする者や、珍しがって金持ちに売りつけようとする者、命の危険を感じることは何度もあった。でも、ユーリたちはわたしをそんな目で見なかった」
アイドル活動と称して旅を続けていた理由。この世界には転生者たちの存在による信仰が他者への思いやりで満たしている。けれど彼女は同じ姿をしていても人間ではない。目を背けたくなるような出来事に直面したこともあったのかもしれない。何度も何度も。エルフである限りは。
「たった一人で責任を感じる必要はないんだよ。わたしはユーリのことを嫌いではないし、きっと心から信頼できる仲間になれると思ってる。一緒に背負う理由なんてそれで充分なんだ。だから……そんなふうに寂しい言い方はしないでおくれ」
優しく言い聞かせるようにヴィオラは柔らかな手をそっとユーリの頭に乗せた。
消えることのない躊躇いがいまも胸の中に残っている。ユーリは目を閉じるとその言葉に紡がれた想いを手繰り寄せていった。
あのとき、ちゃんと俺が止めていればみんなを巻きこむ必要なんてなかった。でも魔力を失うことがなければこうしてみんなと出会うこともなかったのだろう。
「……じゃあ、頼りにしてるぜ?」
「もしくは『助けてヴィオラお姉ちゃん』だな。ユーリがそう言ってくれたらお姉ちゃん頑張っちゃうぞ」
「エルフって急に頭悪くなるときがあるんだな」
「わたしにとってはユーリだって幼い子どもとそう変わらないぞ?」
にっこりと微笑むとヴィオラは優しく頭を撫でた。周りを歩いていた人がなんともいえない表情で見ていたのですぐにその手を払いのけると彼女は可笑しそうに笑っていた。
いままでいろんな記憶を失ってきた。それでも、本当に忘れてしまいたい思い出だけはいつまでも強く刻みこまれたままずっと手放すことができずにいた。だから仲間なんてもういらない。そう思って生きてきた。
けれど、いまは。
「ヴィオラ」
「ん?」
「ありがとう」
いまは、ほんの少しだけみんなと一緒に過ごす時間に寄り添っていたい。そんなふうに願っていた。




