緋色に染まる瞳
男たちはしばらく馬を走らせていき、やがて平原を抜けて山脈に繋がる森の中へと入っていった。鬱蒼と茂った木々が辺りを覆い、完全にひと気のない場所へと連れこまれてしまったようだ。
歩調を落としてゆっくりと歩きはじめた馬上からユーリは辺りの様子を注意深く観察していた。地面は平坦ではあるものの、どこにも人が歩いていたような道が見当たらない。普段からほとんど人の訪れない場所らしい。
「どこにする?」
「この先にさっきの川が通じてるはずだ。そこにしよう」
男たちが気ままに会話しているのを耳にしながら、ユーリは不意に鼻につく異臭に気がついた。微かな生臭さ。走っているときはわからなかったが、どうやらにおいは馬に積んだ荷袋の中からしているらしい。
「おい、お前らこの荷物の中になに積んでるんだ」
「あん? ……ああ、昨日仕留めた魔物だよ。町で売ろうとしたんだが、この辺の町はどこもその手の店がないみたいでな。貧乏人だらけだしよ」
ははは、と二人が小ばかにしながら笑いあう。
そんなのんきなことをしている場合じゃなかった。魔物はフェアリーに集まる性質がある。彼らにとってフェアリーは力の源であり、より強力な個体になっていくにつれてその身体には純度の高いフェアリーを宿している。魔物の死骸なんて持ち歩いていれば襲ってくれと言っているようなものだった。
「すぐに引き返せ、このにおいで寄ってくるぞ……!」
「へへ、心配すんなよ。こう見えても俺らは狩りもできるんだ」
「そういう問題じゃねえんだよっ」
「田舎者は知らないだろうけどよ、魔王ってのは何年か前にみんな死んじまってるんだ。おかげで魔物たちも弱っちいのばかりなんだぜ?」
ちっとも聞く耳を持たなかった。まずい。このままじゃ全員殺される。
「ナーガ! 起きろナーガっ!」
深い眠りについたままちっとも呼びかけに応じない。もう一度名前を呼ぶ前に男がユーリの頭を殴りつけた。
「ってぇな!」
「これ以上騒ぐようなら舌を切り落とすぞ。あまり俺らを信仰深い奴らだと思わない方がいいぜ?」
「その辺にしとけよ。もうすぐ着くんだ」
背の低い男が声をかけてくる。遠くから風に乗って川の流れる音が聞こえてきていた。
「お、じゃあここら辺で降りるか」
小太りの男が先に馬を降りユーリを馬上から突き落とした。受け身も取れず腰の辺りを地面に打ちつけてしまう。男たちはそばにあった大木へ馬を縛りつけると荷袋の中からそれぞれ弓と矢筒を取りだしてきた。そうして二人の男は協力してナーガを降ろしにかかった。
「おっと……」
けれど支えきれずに落としてしまう。
どすんっ。
まるで鉄の塊でも落としたような鈍い音がした。さすがにユーリもぎょっとしてナーガの方を見るとわずかに身体が地面に沈みこんでいた。ちょっと待て、なんだその音。
「ほんとなんなんだこのガキは……」
「んぅ……」
ぼんやりとした表情を浮かべながらようやくナーガが目を覚ます。そうして起き上がろうとしたものの、頭を持ち上げただけでくたりと横たわった。
「あれ、起き上がれません……」
不思議そうに言いながら緩慢な動作で自分の身体を見下ろして、それから二人の男に気づいて顔を上げる。
「……誰ですか、あなたたちは」
「俺たちは──」
かさり。すぐ近くで草木をかきわけるような音がした。咄嗟に男たちが身構えながらそちらへ身体を振り向ける。
白と灰色が入り混じった体毛に包まれた犬が木々の合間から姿を見せた。
途端に男たちの間に緊張した空気が走っていく。
ただの犬じゃない。大型犬ほどのサイズでしかないがあきらかに違う点があった。
不自然に大きく見開かれた眼球がぎょろぎょろと動き回り、それとは対照的に両目の間から余分に一つ開かれていた目玉がじっとこちらを見つめていた。無意識に嫌悪感を抱くおぞましい姿にユーリは舌打ちをした。魔物だ。
「……噂をすればなんとやらってやつか」
ゆっくりと構えた弓に矢を添えて臨戦態勢を取りながら小太りの男が呟く。ユーリは魔物を刺激しないよう声量に気をつけながら声を荒げた。
「逃げろ、そいつはもうお前らが知ってるような魔物じゃないんだよ……!」
「黙ってろっ……!」
じりじりと距離を詰めてくる魔物と対峙しながら二人の男がうなずきあう。
魔王が死んで魔物が弱体化していたなんて勘違いもいいところだ。実際はその正反対で、魔物たちの力はずっとユーリが抑えつけていた。そうするだけの魔力は昨日の時点で失われてしまっており、枷が外れた魔物ともなれば生半可な腕では到底太刀打ちできる相手ではなかった。
「いまだっ……!」
二人の男が同時に矢を射った。放たれた二つの矢が風を切り、まっすぐに魔物の眉間に開かれた瞳へと向かっていく。
魔物の腹から鮮血が吹きだしたのはそのときだった。続け様に赤く塗れた細長い内臓が数十本の触手となってうねうねと波打ちながら飛びだし、飛来した二本の矢を容易く掴み阻んでいた。
「なんだこいつは……!?」
「急げ、もう一発だ!」
二人が再び矢を射ろうとしている中、魔物は受け止めた矢を弄ぶようにくるくると振り回し、やがてその先端をくるりと反対に向けた。
「ナーガ、逃げろ!」
状況が飲みこめていないのか目をぱちくりとさせていたナーガへと怒鳴りつけながらユーリは身体を起こした。そのまま立ち上がる勢いを利用して小太りの男に体当たりをする。
「おわっ……!」
「ぐあっ!!」
突き飛ばされた小太りの男の頭上を矢が掠め、反射的に身をかわした背の低い男の腕を矢が貫いた。もしもあと少し遅かったら。小太りの男は背後の大木へ突き刺さった矢を見て凍りついたような表情を浮かべた。
「ヴォオオオオォォォォォ!!」
突如魔物から発せられた腹の底に響くような低い咆哮が鼓膜を揺るがした。耳を塞ぐこともできずにユーリは身体を竦め、魔物は仕留め損ねた小太りの男に向かって触手を高速で伸ばしていった。逃げる間もなく男の右脚に触手が絡みついた。
「うおっ、おい! くそっ……はな、離せよぉ……!!」
宙高く振り上げられ男が悲鳴に近い怒声を挙げた。
「うおおおおおおお!!」
背の低い男が弓を捨てナイフを抜きながら絶叫し、魔物に向かって走っていった。魔物は素早くその場を飛びのいて距離を取りながら小太りの男を投げつける。
その体格からは想像もつかないほどの力強さで二人の男は激突するとどちらかの、あるいは両方の口元から血が溢れもつれるように地面に崩れ落ちた。小さくうめき声を漏らす二人へ近づいていきながら魔物は触手をゆっくりと伸ばしていく。
こつん。その頭に拳ほどの石がぶつかった。少し動きを止めて気配を探るように目玉を動かしていた魔物へ声がかかる。
「こっちだよ」
喘息のような詰まりのある息遣いを繰り返しながら、魔物は石を蹴飛ばしてきたユーリへと禍々しい三つ目を向けた。
注意を引いたのはいいが戦おうにも両手が縛られて満足に動き回ることさえできない。必死で思考を巡らせながらもユーリは死を覚悟した。さすがに打つ手なしか。
「魔王様、ようやく状況が理解できました」
そのときナーガがいつもの調子で呼びかけてきた。魔物に注意を払いながらちらりと目を向けるとナーガはまだ寝転がったままだった。
「逃げろって言っただろ……!」
「逃げません。魔王様をお守りするのはナーガの使命なので」
「ばかなこと考えるひまがあったらこの先にある川まで走れ……! こいつは身体強化で戦えるような相手じゃないんだよ……!」
「……わかりました」
もぞもぞと地面を転がって身体を起こす。寝ぼけた顔がユーリをまっすぐに見つめた。
「じゃあ、あの魔物をやっつけたらちょっとだけでいいのでナーガを褒めてください」
「なに言って──」
限界まで膨らませた風船が破裂するような音が唐突に鳴り響き、森の静寂と川のせせらぎを切り裂いていった。
その音に驚いた魔物が後ろに飛びのきすぐにユーリから視線を移す。それはナーガが全身に巻きつけられていたロープを内側から引き裂いた音だった。まるで劣化したゴム紐のように容易く千切れたロープがぱらぱらと足元に落ち、ゆっくりと立ち上がっていく。
「お前……」
その光景を目にして思わず息を飲む。魔物の姿を捉えたナーガの黒い瞳が徐々に緋色に染まり光を纏いはじめていた。
「ヴォオオオオォォォォォッ!!!」
危険を察知した魔物が再び咆哮し、即座にナーガに向かって地面を蹴り攻撃を仕掛けていった。一直線に束ねられ鋭利な槍と化した触手が高速でナーガへと迫っていく。
「ナーガ……!」
「ご心配なく」
顔色一つ変えずに答えながら顔面を貫こうとした触手を寸前のところで横に飛んでかわし、それと同時に空を切った触手を何本かまとめて掴んでいた。残った触手がナーガへと襲いかかろうとしていたが、その前にナーガは力任せに触手を引っ張っていた。弾かれたように魔物の身体が宙を舞い、ナーガの方へと引き寄せられる。そして、わずかに身体を捻りながらナーガは握りしめた拳を魔物の顔面に向かって突きだした。
「ギャッ──」
微かに硬いものが砕けるような音と小さく押しだされるような甲高い魔物の悲鳴が漏れ、びくんと触手が跳ねた。ほんの一瞬の出来事だった。肩の力を抜くように吐息しながらナーガが手を離す。魔物の身体が地面に崩れ落ち、脈打つように揺らめいていた触手が少しずつその動きを止めていった。
「……仕留めました」
少しの間魔物を見下ろしていたナーガがこちらへ振り返る。そのときにはもう光は消え、相変わらずの眠たげな瞳に戻っていた。
「大丈夫ですか、魔王様」
「あ、ああ……」
そばにやってきたナーガがロープに手をかけてほどいていく。ユーリはすぐに魔物のもとへ駆け寄り膝をついて魔物の身体に触れた。気を失っているものの、死んではいないようだった。鼻血を出して横たわる魔物を呆然としたまま見つめていた。
なんだったんださっきのは……。
これほど強力な身体強化なんてあるはずがなかった。魔力の循環で筋力を引き上げられる量には限度があり、ナーガの小柄な身体ではどれだけ力を引きだしたところで魔物を一撃で殴り倒すなんて芸当ができるとは思えない。なにかしら別の魔導術を併用していたとしか考えられないが、魔導術を使った様子は少しも見受けられなかった。
「お怪我がないようでなによりです」
「いまの、なにしたんだ……?」
「魔物を殴りました」
「身体強化だけじゃないだろ、他に魔導術が使えるのか?」
ぼんやりとした顔がじっと見つめ返してくる。その頭上にはいくつかの疑問符がふわふわと漂っていた。
「ナーガは学校に行ってないので、魔導術の話はちんぷんかんぷんです」
要領を得ない答えが返ってくる。無意識にやっていたのだろうか。腑に落ちないところはあったがゆっくりもしてられなかった。傷を負っているとはいえ、まだこいつは生きている。
「……まあいい、先にここを離れよう。そのロープであいつらを縛ってこい」
他にも魔物たちが集まってくるかもしれない。男たちはすっかり気を失っているようだった。
「お待ちください、魔王様」
荷物の中に他にもロープがないか確認しに行こうとしたところで不意にナーガが呼び止めてくる。
「なんだ」
「ちょっとだけでいいので、ナーガを褒めてください」
プレゼントをねだる子どものように言いながら、けれど振り返ってみると本音はどうなんだと言いたくなるくらいの無表情でこちらを見つめるナーガがいた。ユーリも無表情に見返しながら、とりあえず思いついた言葉を口にした。
「頑張ったな、お疲れさん」
「ありがとうございます」
それで満足したのかナーガは足元のロープを拾うと男たちの方へてててっと走っていった。
こんなんでいいのかよ。やっすいなお前。
役に立たない奴だと思ったけどナーガのおかげで助けられたのは事実だった。張り詰めていた緊張が抜け、ユーリはそっとため息をついた。