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水平線上のアルマティア  作者: 深波恭介
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木犀草の願い

 ユーリたちが逃げ去ったあと、霧に霞む泉のそばに立っていたレゼッタは彼らが森の外まで出ていったのを感じ取っていた。


 やがて追いかけさせていた蜘蛛たちが戻ってくる足音が聞こえ、だがレゼッタのもとまで帰ってこれたのはわずかな数だけだった。蜘蛛たちは穴の中へ戻る手前で力尽きたように動きを止め、次々に崩れ落ちては繭の砂へと姿を変えていく。途中で多くの蜘蛛たちが同じように砂に変わっているのだろう。


「……」


 レゼッタはその残骸を浮かない表情で見つめ、そうしてうつむいて小さくため息をつくと前足を使って白い砂をかき集めはじめた。


「魔王様たちは無事に町へ向かわれたようだな」


 そのときレゼッタの後ろから声がして一人のエデルシーラが木陰から出てくる。レゼッタは砂を集めながら振り返ることもなく答えた。


「あらオーグリオ。いつから隠れていたんですか。覗きだなんてエデルシーラにあるまじき行為ですね」


「今朝からいたよ。気づいてなかったわけではあるまい?」


「まったく気づきませんでした」


「素直じゃないな」


 ぶふー、と呆れやなにかしら燗に触る感情の入り交じったため息が聞こえ、レゼッタも相手に聞こえるように大きなため息をついた。


「わざわざそんなことを言いに来たわけじゃないでしょう」


「あそこまで煽る必要はなかったんじゃないのか? あんな真似をしなくとも一言お前から釘を刺しておけばよかったじゃないか」


「……いいえ、あれでいいんです」


 砂を集め続けながら目を閉じる。あれでよかった。間違っていない。そう言い聞かせた。


「魔物は魔物だと割りきる冷酷さがなければ魔王様はいつかご自身の躊躇いに殺されてしまいます」


「だが……」


「人間に心を開く魔物の方が少数なんですよ。彼らは狡猾で残忍です。そもそも本来わたしたちに情を抱くものではありません」


 もう一度目を開けたとき白い砂は地面の土と混ざりあっていた。


「そうそう、魔王様はあなたたちのことも心配してくださっていましたよ」


「……聞こえていたさ」


「わたしたちが敵対しているとお考えになっていたようですね。ご自分のことで大変なのに、周りばかり気にかけて」


「そんな方だよ、魔王様は」


 オーグリオは小さく口元に笑みを浮かべるとふごっと鼻を鳴らした。


 レゼッタに戦う意思は最初からなかった。静かで穏やかに暮らせる場所。それだけがあればなにもいらない。あるときオーグリオがここへやって来たときにその旨を伝え、なんだかんだで彼とは時折の話し相手になっていた。


 不思議な縁だとレゼッタは思った。いままでは違う種族の者たちと仲を紡ぐつもりなんてなかったのに、ユーリと出会ってからは案外そういうのも悪くはないものなのだと知ることができた。最も脅威で遠ざけてきていた人間からそれを教えられるなんて。


「ところで、言いたいことはそれだけですか。用が済んだのなら早く帰ってください」


「ああ、用事というほどのものではないんだが……よかったのか? あのまま行かせて」


「なんのことですか」


「渡すものがあったんじゃないのか」


 その一言にレゼッタは一瞬だけ砂を集める手が止まった。だがその動揺を見透かされたくなくて何事もなかったようにかき集めていく。


「あなたもときどき余計な勘繰りが過ぎるようですね」


「心配して言っているんじゃないか。だいたい人間たちの文字を教えてくれとせがんできたのはお前の方だろう? 想像するのは容易い」


「……エデルシーラがそこまで頭の回る種族だとは思いませんでした」


「恋文というやつか」


「その言い方は少々古風です」


 スカートのポケットから取りだした便箋を見下ろしながら答える。


 いつか。もう一度ユーリがここへ訪れたら。


 そのときはこの手紙を渡そうと思っていた。ユーリに対するありのままを気持ちを、何枚も書き直してようやく丁寧な文字で綴れた手紙を。


 けれど、それも叶わなくなってしまった。


 レゼッタは憂いを乗せた顔でその便箋を見つめ、やがて意を決したように手をかけた。


「なにも捨てなくてもいいじゃないか。魔王様のもとまで届けてやることはできるぞ? なんなら今日中にでも」


「いいんです、もう」


「……お前は聡明だがときどきもどかしくなってくるよ。せっかく頑張って覚えたんじゃないか。読み書きはできるようになったんだろう?」


「……一応は」


「素直に教わってくれればずいぶんと楽だったんだがな」


 レゼッタがオーグリオから教わったのは人間が使う文字の種類だけだった。


 できる限り自分の力で。そのために彼には何十冊も物語を綴った本を持ってきてもらった。ぼろぼろになるまで何度も。繰り返し読み返して痛みきった本は穴の中の一室にきちんと仕舞われている。


「心配しなくても魔王様は受け取ってくださるさ」


「こんなものを渡されて魔王様が喜ぶわけないじゃないですか」


「だが誤解されたままではお前だって心残りだろう?」


「だから渡せないと言っているんです。それでは意味がないじゃないですか。きっと魔王様を困らせてしまうだけです。わたしは魔物で蜘蛛の姿をしているんですよ」


 できるだけ本当の姿は見せないようにしていた。


「……とても、醜い姿に映っていたはずです」


 できれば、こんな姿をした自分を見られたくなかった。


「これでいいんです。それでも魔王様は変わらない瞳でわたしを見てくださいましたから。だからもう、いいんです」


 ぽたりと便箋に雨が降った。霧の霞みに閉ざされた空からは彼方から薄く降り注ぐ光が見える。


 ああ、雨じゃないのか。


 けれど降り止むことはなかった。ほんの少し。あと少しだけこの脚の下も同じ姿でいられたならよかったのに。ぽたぽたと大きな雫の粒が次々に零れ落ちていく。


「レゼッタ……」


 魔物のくせに人間の真似をして手紙を贈ってみようだなんて、ばかみたい。


 目の前がぼやけてなにも見えなかった。胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


 想いを伝える資格なんてあるはずがない。わたしはここで待っていることしかできなかったのだから。


 必死で声を押し殺し、誰にも悟られないように。そうして止めようとすると余計に溢れだして痛みは増していくだけだった。


 泣き続ける彼女の背を見つめながら、胸ポケットに入れていたハンカチを取りだしてオーグリオはため息をついた。


「きっとまたいつか魔王様はここへいらっしゃるよ。それまで大事に取っておくんだな」


「っ……なんのつもりですか、それは……」


「使え。お前に涙は似合わない」


「……けっこうです。あなたの汗で汚れたハンカチなんて」


「まだ使ってない。洗い立てだ。我々は清潔を好むのでな」


「……」


 気を遣っているのか明後日の方角を眺めながら差しだしてきたハンカチを受け取りそっと目元を拭う。


 いつか。そんな日が訪れてくれるだろうか。けれどそんな言葉で少しだけ心が救われたような気がした。


 もしもまたいつか会えるのなら。きっとこの言葉に重ねる想いは届かない。それでも。


「……エデルシーラに慰められるだなんて、一生の不覚です。わたしの汚点に数えておきます」


「よせよ、俺は誇りに思ってる」


 もう一度だけあの人に笑いかけてもらえるのなら。それだけで充分すぎるほどの奇跡だとレゼッタは思った。

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