透明な言葉
受け身すら取る余裕もなく地面に強く胸を打ちつけて息を詰まらせ、ユーリは身体を起こしながら後ろを振り返った。
「ちぃっ……!」
右足に一本の白い糸がべとりと絡みついていた。それを辿っていった先では灰と化した仲間たちの死骸を乗り越えてきていた一匹の蜘蛛が腹部から糸を伸ばしてユーリを引きずりこもうと蠢いていた。
もう少しだっていうのに……!
その後ろからも続々と蜘蛛たちが炎を乗り越えてきており、彼らの捨て身の進軍と圧倒的な物量のせいで既にユーリが起こした炎は消えかかり煙を立ち昇らせているだけだった。
慌てて糸に手を伸ばし力をこめたが引き千切るどころかたわませることさえもできず、手を離そうにもべちゃりとした粘液が接着剤のようになって完全にくっついていた。
そのあいだにも蜘蛛はユーリに向かってざざざざと地面を這い進み、糸に引っ張られて身体が引きずられていく。片足で地面を蹴って踏ん張ってみてもまるで効果がなかった。
「くそっ……!!」
取り乱さないように必死で考えながら、けれど武器になるものも見つからないまま焦燥だけが脳裏を惑わせていく。
背後からなにかが高速で頬を掠めていったのはそのときだった。
「っ……!?」
ぱきゅ、と押しだされるような声がしたかと思うとユーリの足に糸を伸ばしていた蜘蛛の身体が唐突に弾け散っていく。
咄嗟に後ろを振り返る。
森の向こう、霞みの奥に浮かぶ二つの真紅の光があった。ナーガ。そのおかげで糸が緩み、続けざまに硬化して単なる繭の残骸へと変わっていく。
だが突然の攻撃に蜘蛛たちが怯んだのはほんの一瞬にしか過ぎず再び神経に障る足音の嵐が鳴り響きはじめていった。
声は聞こえない。なんの物音も。けれど光がナーガの意思を伝えていた。合図をするようにナーガがゆっくりとまばたきをする。
信じるからな……!
目前に迫っていた蜘蛛が急加速して飛びかかり、けれどユーリは取りあうことなく足にまとわりついていた残骸を払いのけた。その頭上を弾丸のように駆けぬけていった物体がユーリへ襲いかかろうとしていた蜘蛛を寸前で撃ち貫いていく。
そのすきに立ち上がるとただ全力で霞みの向こうへ走った。
やがて、木々にまとわりついていた繭が少なくなってくると急激に霧が薄くなっていき晴れた視界の向こうにナーガの姿が見えてきた。
空の日差しと寄り添うようなぬくもりを肌に感じ、完全に霧を抜けると急に身体の力が抜けてユーリはその場に膝を突いた。立ち止まった途端に全身からどっと汗が吹きだし息切れしてうつむいたまま肩で呼吸を繰り返した。
「おかえりなさいませ」
「あ、あぁっ……」
「お怪我はありませんか」
そばに来て膝を突いたナーガが眠そうな顔でユーリを見る。無言で首を振りながら立ち上がるとナーガもそれに合わせた。
「アイリスは……?」
「この先でがたがた震えています。逃げだしているかもしれませんね」
「そっか……」
袖で汗を拭いながら後ろを振り返る。蜘蛛たちはすぐそこまで来ていたが霧の薄くなる辺りで立ち止まり壁のように仲間同士で乗っかりあってぎちぎちと鳴きながら脚を動かしていた。
デゼスポリアは光を嫌う魔物だ。だから霧の外へ出てくることはない。
「ご無事でなによりです」
もう捕まえることはできないとあきらめたのか引き返していく蜘蛛たちを見送っていたナーガがこちらに向き直る。あんな状況の中でも変わらずに無表情なままでいたナーガを見ていると急に安心してしまい、ユーリは眠そうなブルーグレーの頭に手を乗せた。
「魔王様……」
「……ありがとな、ナーガがいなかったらやばかった」
気を遣う体力も残っておらずぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でながらため息混じりに笑いかける。ナーガは不思議そうな顔でこちらを見上げていたが、やがてそれに応えるように微かに、ほんの少しだけ笑顔を浮かべた。
「……いいえ、魔王様がご無事であったならそれ以上はなにも」
「あ、そう?」
せっかく褒めようかと思ったのに殊勝な奴だな。
ユーリがぱっと手を離すとあちこちへ跳ねた髪の毛の下でナーガは眠たそうな顔をしたまま目をぱちくりとさせた。
「……どうしてやめるんですか」
「なにもいらないって言うから」
「言葉の綾です。いります。もっと撫でてほしいです」
「……犬みたいに正直だなお前」
「そんな下等生物と一緒にされてはさすがのナーガも心外ですが」
そう言いながらもユーリがもう一度撫でてみるとナーガは気持ちよさそうに満足げな顔で目を閉じた。
普段は能面みたいに表情が動かないくせにこんなときだけやけに素直だ。
しばらくのあいだ呼吸が整うまではそんなふうにしてナーガの機嫌を取り、やがて一つため息をついて手を離した。
「そろそろ行こう。アイリスが待ってる」
「はあ、来てよかった……」
「微妙に不謹慎なんだよな」
それにしても、まさかレゼッタに襲われるとは。可能性がないわけではなかったがあれだけ慕ってくれていたレゼッタに牙を向けられたのが少しだけ、いやかなりショックだった。
「どうしました、魔王様」
「……いや、なんでもない」
仕方のないことなんて生きていれば嫌というほどある。もともと人間と魔物だ。ただ、あるべき関係に戻ってしまった。たったそれだけのことなんだ。
歩きだしながら霧の霞みに振り返る。静寂に沈んだ森の向こうからはなんの答えも返ってこなかった。




