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水平線上のアルマティア  作者: 深波恭介
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魔導士の鼓動

「ね? そんなに怖くないでしょう?」


 優雅な笑みを浮かべたまま本体である蜘蛛の上からレゼッタが見下ろしてくる。スカートの下に人間の脚はついておらず、レゼッタは蜘蛛の頭胸部から一本の肉柱で繋がっていた。


「っ……う、ゆ、ユーリ、くんっ……」


 金縛りにあったようにレゼッタから目を離すこともできず尻もちをついたままアイリスが震えた声で呟く。


 狼狽えるな。そう言い聞かせてもレゼッタの微かな身じろぎでさえ無意識に全身を虫が這っていくような悪寒が走った。


 すると、泉のそばに立ったまま少しも動じた様子もなく無表情でレゼッタを見上げていたナーガがふと気がついたようにこちらへ目を向け足早にやってくる。


「魔王様、ナーガのマントを着てください」


「い、いや、いい……大丈夫だ……」


「ですがとてもお身体が冷えてます。蜘蛛はお嫌いでしたか」


「っ……」


 無言で首を振るとユーリはなんでもないというふうにできる限り慎重な動作でアイリスの方へ歩いていった。


 恐怖に染まりきったアイリスの目の前で腰を下ろして視界を塞ぎながら小さく深呼吸をする。


「アイリス、俺だけを見てろ」


「っ……う、うんっ……」


「……レゼッタ、そろそろ俺たちも帰るよ。話聞かせてくれてありがとな」


「お役に立ててなによりです」


 振り返って笑みを浮かべたユーリに満面の笑顔で返しながらレゼッタがくすくすと笑う。


「うふふ、でもご冗談は嫌ですよ魔王様。このまま帰るだなんて、そんな」


 途端に背筋を冷たい汗が伝い落ちていった。嫌な予感がする。ただの悪ふざけじゃないただならぬ雰囲気。


 蜘蛛の六つの目は鈍く瑠璃色に輝いており、口元についた牙のように鋭利な鋏角のあいだからは粘性の液体が薄く糸を引いていた。ぴちゃり、ぴちゃり。なんらかの動きに伴ってそこから粘り気のある湿った音が立った。


「……やめてくれ。そういうのはあんまり笑えないから」


「わたしが戯れているように見えますか?」


「レゼッタ……!」


「魔王様がここへいらっしゃるのをずっと待っておりました。はじめてお会いしたときからずっとこうなる日を焦がれていたんですよ?」


 そう言ってレゼッタは微かに赤みを帯びた頬に手を添えた。まるで恋をする乙女のようにはにかんだ笑みを浮かべながら愛おしげな眼差しをこちらへと送ってくる。


「……フェアリー結晶が欲しいのか?」


「いいえ、いりません。わたしはただ、魔王様が欲しいだけなんです。魔王様のことだけを渇望していたんです」


「俺を……?」


「ええ……魔王様が、身も心もなにもかも」


 ユーリを見つめる潤んだ瞳が、紅潮させた表情が恍惚の笑みへ変わっていきレゼッタは悩ましげな吐息をそっと零した。


「その柔らかなお肌に歯を立てたらいったいどんな素敵な声を聴かせていただけるのか……あぁ……魔王様の苦痛に歪むお顔を拝見できるのがこの世界でわたしだけだと思うと……胸の高鳴りが止まりません……そう考えるだけで胸が締めつけられるように苦しくなるんです……」


「っ……」


「ふふ、その恐怖に引きつったお顔……とても素敵ですよ」


 まずい。レゼッタは本気だ。


 このまま恐れに捉われていたら三人揃ってやられてしまう。取るに足らない感情の波にさらわれるわけにはいかない。


「ちっ……ずっと引きこもってるからそんなふうにこじらせるんだよ」


 立ち上がったユーリにレゼッタはにこりと口元へ浮かべた微笑を向けた。


「強がりは不安の裏返しですよ?」


「この俺を殺す夢でも見れたかよ」


「幸せな夢でしたら何度か」


 ゆっくりと一歩ずつ。蜘蛛の脚が動きだしてもぞもぞと地面を這ってきた。その不規則な動きが無条件に嫌悪感を覚えさせ、その頭上で胸に手を押し当てて悶えるレゼッタとの不釣り合いな姿がひどく歪に映った。


「お下がりください、魔王様」


 咄嗟にナーガがあいだに割りこみレゼッタの前へ立ち塞がると背負っていた杖を掴み構えていく。


「いったい魔王様とどのようなご関係か存じ上げませんが聞き捨てなりませんね」


「……その小さな身体でわたしに敵うとでも?」


「侮りは寿命を縮めますよ」


「うふふ、魔導士の姿をしておりますが魔力を感じないのはなぜでしょう」


 まったく相手にした様子もなく笑顔を浮かべていたレゼッタへ唐突にナーガが攻撃を仕掛けていった。


 大きく口を開いた頭胸部へ切っ先を見失うほどの速度で杖を振り下ろす。その瞬間にレゼッタの巨体が後ろへ飛びのき、空ぶった杖が地面を大きく抉り土煙を上げた。ずしんと重い足音を立てて地面を揺るがしながら着地したレゼッタが顔色も変えずにナーガへ微笑んでいた。


「力持ちなんですね。ですがもう少し淑やかさを身に着けた方がよいのでは? 魔王様は落ち着きのある女性がお好みのようですから」


「あなたを殺してからそうします」


 戦わせちゃだめだ、早く止めないと……!


 いくらナーガに怪力があってもレゼッタとは相性が悪い。そうでなくても──


「っ……」


 こんなときにまでなに考えてるんだ俺は。


 余計なところに気を回すほどの余裕は持て余していない。わかってるはずなのにレゼッタとこんな形で決別をしたくなかった。ずっと慕ってくれていた仲間だった。


「アイリスっ! エーデルワイスを抜けっ!!」


 拳をぎゅっと握りしめながら後ろへ振り向いて大声を挙げる。アイリスは気がついたように腰を抜かしたまま震える手で腰に携えた聖剣へ手を伸ばし、けれど掴んだだけで抜き放てずユーリを見つめたまま首を振った。


「だ、だめっ……できないっ……できないのっ……」


「なに言ってるんだよっ!」


「あ、あたし……ごめっ、ごめんねユーリくんっ……だめなのっ……怖いのっ……」


 絞りだすように悲痛な声で呟きながらぎゅっと目を閉じた。なにを言っているのか意味がわからず考える前にユーリは代わりに聖剣へ手をかけた。


「くっ……なんだよこれっ……」


 まるで金属で塗り固めてあるようにびくともせず鞘から抜くことができなかった。


 アイリスにしか抜くことができないのか……!?


 その後ろでは二人が戦いはじめており、あの体重からは想像もできない速さで攻撃を仕掛けていくナーガだったが先読みのできるレゼッタにはそのどれもが意味を成さず、ほんの少しのダメージさえも与えることができずにかわされては受け流されるという攻防を繰り広げていた。


「ナーガ逃げるぞ!」


「逃がしませんよ」


 不敵な笑みを浮かべてレゼッタが言う。


 ざざざざざざざざざざざ。


 それに伴って後ろにあった穴の中から突如として大量の足音が昇ってきた。


「どうか抵抗はしないでくださいね、できれば原形を留めておいていただきたいので」


 その音の正体に気がついたアイリスが短くか細い悲鳴を挙げながら強張った顔で目を見開く。


 穴の中から這いだしてきたのは数えきれないほど大量の蜘蛛だった。一匹一匹が中型犬ほどの大きさを持っており落ち葉を踏みしめるような大量の足音が森の静寂を切り裂いていく。コンサートホールに湧き起こる拍手の嵐のような、あるいは荒れた日の海のようなざわめきが蠢く魔物の大軍となって三人へと襲いかかってきた。


「ナーガ、これを使えっ!」


 咄嗟にユーリはポケットの中から取りだしたフェアリー結晶を投げつけた。振り返り様にそれを受け取ったナーガが瞬時に意図を理解しレゼッタの目の前へと叩きつける。


 マントとワンピースの裾がふわりと翻り、砕け散ったフェアリー結晶が一気に励起され金属を打ち鳴らしたような甲高い音が響き渡っていった。


「それはっ……」


 ほんの一瞬レゼッタが驚愕の表情を浮かべたが、そのときにはもう紫の霞みを覆い尽くすほどの閃光が森の奥まで走りぬけていた。


「ひゃっ……な、なにいまのっ……!? 目がっ、ユーリくんっ、見えないよどこにいるの助けてっ……!!」


 ユーリとナーガは目を閉じて眩みを遠ざけていたが直視してしまったアイリスが混乱した様子で慌てふためく。レゼッタも周りにいた蜘蛛も視界を奪われて怯んでおり、そのすきに地面を蹴った。


「行くぞ! アイリスをっ!」


「やれやれ、手のかかる転生者ですね」


 ナーガはため息混じりに呟くと駆けだしながらアイリスの腰に手を回して肩に担ぎ上げた。


「いやっ、なになにっ、ナーガちゃんっ……!?」


 なにが起きたのかわからずじたばたと暴れるアイリスの肘がナーガの後頭部を打ち、効いた様子はないもののいらっとした表情で彼女の方を睨みやる。


「暴れられたら落っことしてしまいます。大人しくしておいてください」


「ひぇっ、は、早く逃げてっ……! 蜘蛛来てるからぁっ!! 嫌ぁ気持ち悪いぃぃぃっ!!!」


 半ばパニックに陥りながらアイリスが大声で喚いてナーガを急かす。振り返る必要はなかった。すぐに立て直して追いかけてくる大量の足音が真後ろに迫っているのがわかったからだ。


 森の中を全速力で駆け抜けながら霧の霞みが晴れる場所を目指していく。光を閉ざされて霧は果てしなく広がっているように見えていたが距離にすればそこまで遠くはないはずだ。


 だがさすがのナーガも暴れるアイリスを担いでいるせいで思うように走ることができず徐々に蜘蛛の足音が近づいてきていた。歩調を合わせながらちらりと横目でナーガを窺ってみるとうっとうしそうにしながらも決して振り落とすことはなくしっかりとアイリスを掴んでいた。


 このままじゃ逃げきれない。


 ユーリはポケットに手を突っこみ買っておいたもう一つのフェアリー結晶を取りだした。さっき使ったものよりもある程度周囲のフェアリーに近い性質を持った結晶だ。


 うまくできるかどうか。けれどやらなければ無事に森を抜けだすことは到底不可能だった。


「ナーガ、先に行ってろ! 霧の外まで出れればいいから!」


「どうするおつもりですかっ」


「ここで食い止める!」


「できません、魔王様を置いていくなんてっ」


「いいから行けっ、アイリスがいるだろうが!!」


「……わかりましたっ」


 うなずいたナーガが走りぬけていき、ユーリは後ろに振り返ると上着の中からアロマージモーブを取りだした。蜘蛛の大軍が地面の起伏や木々の幹を茶褐色の絨毯のように覆い尽くしながらざざざざと不気味な足音を立てて迫ってくる。


 なんつー最悪な光景なんだ……。


 全身に鳥肌が立っていくのを感じながらもユーリは気を引き締めてアロマージモーブのつぼみを押し潰し目の前に投げつけた。


 押しだされたつぼみの中から飛びだした体液が辺りに散らばり、やがて少しずつ煙を立ち昇らせながら火を起こしはじめる。


「ユーリくん逃げてっ!!」


 蜘蛛の大軍が眼前へと迫り口を開けて襲いかかろうとする中、背後から遠ざかっていくアイリスの悲鳴が響く。


 大丈夫だ。


 胸中でそう答えながら小さく深呼吸をして目を閉じる。そしてユーリは意識を深い集中の海に沈めていった。


 魔導術は励起させたフェアリーのエネルギーを利用する技術だ。魔力はそのエネルギーを取りだすための力でしかない。条件に適したフェアリーと励起した際に起こる遷移速度、さらにフェアリー同士の忌避性という針の穴を通すような相互関係。それらを噛みあわせる一瞬の揺らぎを捉えるだけだ。


 それさえできれば──


「悪く思うなよっ……!!」


 ユーリがフェアリー結晶を火の中へと叩きつけた瞬間、空気が圧縮されるような音と共に飛びかかろうとしていた蜘蛛の大軍を飲みこむほどの爆炎が上がった。


 ぎちぎちと神経に障る声を漏らしながら蜘蛛たちが炎の渦に飲まれ、後ろに控えていた大勢の蜘蛛たちも仲間たちを乗り越えて無理やりに突き進もうとしながら次々に炎に焼かれていく。


 それは紛れもなく魔導術だった。


 あくまで擬似的な紛い物にしか過ぎない。だとしても、ユーリほどのフェアリーに対する感受性を持ってなければ常人には触れることさえできない奇跡だった。


 だが、汎用魔導の下位に位置する初歩的な魔導術くらいならという計算とは裏腹にそれにも満たない小規模な炎しかつくりだせず、また魔力で収束させていないため方向を操ることもできず拡散しているせいで考えていた以上に威力が出ていなかった。


 全滅させるつもりだったが単なる足止めにしかなっていない。


「くそっ、数が多すぎるんだよ!!」


 ユーリは舌打ちをすると彼方にいるであろうレゼッタへ文句を言いながら走りだした。ナーガたちは既に霧の奥に消えて姿が見えなくなっており打てる手を使い尽くしたユーリも振り返ることをやめて走り続けた。


 時間は充分に稼いだ。これならなんとか霧の霞みから抜けだせる。そう思ったときだった。


 不意に片足がなにかに引っかかり視界が大きく揺らいだ。

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