胸に秘めた予感
山道を登りながら右手に目を向けると断崖の向こうに大陸を横切る山脈群がそびえていた。普段オークたちが使っているおかげで山道はほどほどに整備されており多少の起伏があるものの雑草の類はなく歩きやすかった。あの山をいくつか越えていけば城の方まで戻っていけるが、この辺りの山と違って極端に勾配がきつくなるため徒歩で乗り越えていくのは基本的に無謀だ。
左手には深い森が広がっており一定の間隔を置いて『注意、この先オークの里』と書かれた板が樹の幹にくくりつけられていた。ここへ来るまでにいくつか見つけたが徐々にその数は増えており村が近づいていることを教えてくれていた。
一応この辺りにもオーク以外の魔物が生息しているはずだが不思議と道中で一度も見かけることはなかった。魔物たちにとってもオークは脅威であり彼らの縄張りにはあまり近寄らないせいだろうか。
「この調子で行けば日暮れ前には余裕で着けそうだな」
「では魔王様もお疲れのご様子ですしこの辺りで休憩しますか」
久しぶりにこんな山道を登ってすっかりへとへとになっていた。ユーリは道の脇に腰を下ろすとナーガが鞄から取りだしてきた水筒を受け取って一口だけ飲んだ。火照った身体に木々を揺らすそよ風が気持ちよく襟元をつまんでぱたぱたと風を送りながら山脈を見上げる。
「オークは普段どんなものを食べているのですか」
そこそこ体力のいる道のりだったはずだがナーガにまったく疲れた様子はなく、ユーリが返した水筒を鞄にしまいながら平然とした寝ぼけ顔で訊ねてくる。
「なんだろ……町に来たときなんかは俺たちと同じもの食べてるらしいけど。野菜好きなのが多いって聞いたことあるな」
「人間は食べませんか」
「さあな、俺もあんまりオークの生態に詳しいわけじゃないから。でも主食とか好物だったら向こうも交流してこないんじゃねえの」
「そうですか」
「心配してるのか?」
「……いえ、そういうわけではありませんが」
ナーガはそう言って山道を振り返った。
「先ほどの女がまだついてきているみたいなので」
「なに?」
ユーリは立ち上がると山道を見下ろした。緩やかに右にカーブして先の方までは見渡せずその辺りに少女の影は見当たらなかった。
「ほんとについてきてるのか?」
「離れてはいますが引き返してはいないようですよ。あの嫌な感じもしてます」
探し物をするように森の方へ目を向けながら答える。まさかこの視線の先にあの少女がいるのだろうか。モーティペルンのときといいナーガの感知能力は常人離れしたものがあった。
魔導術に精通した魔導士は空間把握能力に優れているという。意識的に止めない限り人は常に魔力を微弱に放出し続けており高い魔力を持つにつれてその拡散範囲は広がっていく。そのため実力のある魔導士などが近くにいると形容し難い圧力のようなものを存在として感じ取れるが、同時にこの魔力は一種の触覚器官となって物体を知覚することができた。
だがこのように拡散する魔力から周囲の物体を把握するには膨大な魔力と高い感応性が求められる上、それでもおぼろげになにかあるといった程度でしか捉えられないので大半の魔導士には無関係の話だ。
たった一人だけまるで手に取るような繊細さで感じ取れる人物を知ってはいるが……まあ、あれは完全に化け物なので一括りにしてはいけない。
それはともかくとしてなんでまだついてきてるんだ。いくらそう呼んでいるのを耳にしたからといっても疑いすらしないのが普通の反応だろ。実際魔王ではあったので勘がいいと言えるのかもしれないけど。
「ついてこいナーガ」
「殺りに行くんですか」
「なんでさっきから殺意剥きだしなんだよお前は」
「魔王様の身になにかあってはいけないので」
「さっさと町に帰るように言うだけだよ」
「ですがこんな山奥までついてきてますし、魔王様のことを疑っているのは間違いないですよ」
「……とにかく行くぞ。こんなとこで夜を過ごすのは危険だ」
そうして道を引き返し山道を下っていく。好戦的な性格ではなさそうだったのが救いだけどいったいどうやって信じてもらえばいいのやら。どうしてここまで魔王に固執するんだろう。単なる正義感以上のなにかはありそうだったがそれを成せるだけの実力がある剣士には見えなかった。
見落としてしまわないように注意深く辺りを見回しながらしばらく歩いていると例の少女はユーリたちからずいぶんと遅れた場所にいた。
「……あ」
歩き疲れたのか大木に背を預けて木陰に座り汗を拭っていた少女がユーリたちに気づき慌てて立ち上がり気まずげにこちらへ視線を向けた。
「魔王じゃないって言っただろ。なんでついてきてるんだよ」
「うそかもしれないと思って……それで、もう少し確かめようと思って……」
そう言いながら立っているのも面倒そうに肩で呼吸を繰り返す。剣士のわりにあまり体力がないみたいだった。ユーリは小さくため息をつくとナーガの鞄から水筒を取りだした。
「飲めよ。こんな場所までなにも持たずに来ちゃだめだろ」
「っ……」
差しだされた水筒に少女は戸惑った顔で手を伸ばし、けれど躊躇うように引っこめそんな葛藤めいた沈黙を数秒挟んでから恐る恐る受け取った。けれどすぐには飲もうとせずに不安そうに水筒を見下ろしている。
「毒なんか入ってないって」
「あ、いえっ……その、ごめんなさい……いただきます……」
気まずげに謝ると水筒を傾けて少しだけ中身を飲んだ。そうして一息ついたように小さくはぁっとため息をつく。
「すみません……お水、いただいちゃって……」
「まだ俺のことを魔王だって疑ってるのか?」
「……わかりません。悪い人には見えないから……でも、なんていうか、その……」
「なんだ?」
「あの、気を悪くしないでほしいんですけど……あなたたちからずっと変な感じがしてて……」
「……なんだそれ?」
「すみませんっ……わたしの気のせいかもしれなくて……ただ、ずっとそれが気になってて……それでここまでついてきてました……」
いまいち要領の得ない返答にナーガと顔を見あわせる。いったいなにが引っかかっているのか魔力めいたものはユーリはなにも感じなかったが、そうして考えているうちに一つだけ思い当たるものがあった。
「これか?」
ユーリは服の襟元に手を突っこむと首から下げていた小さなフェアリー結晶を取りだした。三センチにも満たない小さな結晶が太陽の光を反射し、少女はそろそろと近寄ってくると目を丸くしながらそれを見つめた。
「きれい……」
ユーリがこの世界に転生した頃、数年のあいだある人のもとで生活をしていた。これはそのときにもらったものであり、おそらく世界中を探してもこれ以上のものはないといっていいほど高密度のフェアリーを含んだ結晶だった。正しく鑑定できればすさまじい値がつくのは間違いない。
モーティペルンを引き寄せてしまったのもこれを持ち歩いているせいだ。魔王だった頃はそれでもよかったが不用意に魔物を呼び寄せてしまう以上できるだけ早いうちにこれをもとの場所に返さなくてはならなかった。首都へ向かう前に寄り道をしようとしていた理由がこれだ。
「魔王様から感じていた心地よさはこれのことだったんですね」
「心地いいか? どっちかっていうと禍々しい感じがするけど」
「……魔王様は気にならないのですか」
「気になるよ。でもまあ俺はお守り代わりにしてたから。ともかく、たぶんこの結晶が原因なんじゃないかな」
「そうだったんですか……」
人によってはこの結晶が持つフェアリーに反応してしまうのかもしれない。魔力を喪失したとはいえユーリにもフェアリーを感じ取る力だけは残っていた。
「すみません……勘違いばかりして……」
「わかってくれたならいいんだ。気にしてないよ」
「ごめんなさい……」
すっかり委縮してしまった少女が申し訳なさそうに頭を下げる。
「なんでそんなに魔王を追いかけてるんだ?」
「……事情があるんです。すみません、うまく言葉にはできないけど……」
あまり多くを語りたくなさそうな雰囲気を感じユーリは小さくため息をつきながらフェアリー結晶をしまうと空を見上げて太陽の位置を確かめた。いまから引き返せば日暮れには間にあわないまでもそう遅くならないうちにアンスリムまでは帰れるだろう。
「遅くならないうちに町へ戻った方がいいよ。その水筒あげるから」
「いえ、悪いです……」
「喉乾いてるだろ。いいから持ってけよ」
「……ありがとうございます」
少女はもう一度頭を下げると背を向けて山道を引き返していった。話のわかる相手でよかった。けれど振り返り様の横顔はなんだか途方に暮れていたようにも見えて肩を落として歩いていく少女の背中をユーリはしばらくのあいだ見送っていた。




