思い出に変わるまで
なんとなくまっすぐホテルへ戻る気分ではなくなってしまい、酔い覚ましを兼ねてユーリは少し寄り道をしてから帰ることにした。
おもむろに見上げた空にはわずかばかりの雲が満月に照らされて黒い影をつくり、緩やかな段差で登っていく通路を適当にぶらついていると静寂のすきまから微かな歌声がしていることに気がついた。
耳を澄ましてみるとどうやらその声は頭上を横切る空中回廊から降ってきているようだった。とても透明感のあるきれいな歌声で静寂に寄り添うように柔らかくメロディーだけを刻んでいる。
少しのあいだ立ち止まって耳を澄ませていたユーリはそちらへ歩きだした。空中回廊を支える柱まで行くとそこから階段が続いており、窓から差しこむ光を頼りに上まで登っていく。
頂上までたどり着くとふわりと冷たい風が頬を撫でた。酔いで火照った身体でも肌寒さを感じ、ポケットに手を突っこみながら回廊へ目を向けてみるとその先にぽつんと一つの人影があった。
「……ユーリか」
月明かりに照らされながらヴィオラが振り返る。ユーリは彼女のもとまで歩いていった。
「歌ってるのが聞こえてさ。あまり耳慣れないメロディーだったからもしかしてヴィオラかなって」
「アニソンだ」
「なんだそれ」
「アニメソングの略だよ。そんなことも知らないのか?」
「お前が知ってることの方がおかしいはずなんだけど……まあ、いいか」
「最近は少しさぼり気味だったから練習してたんだ」
「きれいな声だったよ。上手なんだな」
「ありがとう」
ヴィオラは風に流れる髪を押さえながらそっと微笑んだ。目を凝らすと外周の方に見張りの兵士がいるのが見えたがどうやら注意はされなかったらしい。
「楽しかったか?」
「まあ、それなりに」
「そのわりにはずいぶんと酔っぱらっているようだが」
「断りきれなくて……慣れないもの飲むんじゃなかったよ」
「ユーリの世界では二十歳からだったか」
「よく知ってるなそんなことまで……」
こっちはあまり飲まない方がよいという程度で未成年の飲酒が禁じられているわけではない。ヴィオラの知識の深さに呆れ半分で感心しながら、ユーリは手すりに手を置いて風を浴びながら訊ねた。
「ずっとここで歌ってたのか?」
「……いまは、一人になる時間も必要だからな」
カスミのことだとすぐに察したユーリは顔色を窺うように隣へ顔を向けた。それに気がついて振り向いたヴィオラがため息混じりに小さく苦笑いを浮かべる。
「一人になりたいのはアンゼリカの方だよ」
ほとんどの民家から明かりが消え妖精灯の光だけがぽつぽつと並ぶセントポーリアの街並みを見下ろしながらヴィオラが言う。
「あのときは心配をかけまいと笑顔で見送ってみせたが、あの子にとってカスミは母親同然だったんだ。まだ受け止められていないというのが本音だろう」
ここからは町だけでなくその向こうにまで広がる平原が一望できる。月明かりの下で野山は黒とグレーの陰影をつけながら遥か彼方まで続き、その向こうに広がる海にはきらきらとした光が星のように波間で瞬いていた。ちらりと盗み見た彼女の横顔はそれらを眺めているようでまったく別のものを見つめているような気がした。
「あの子がどんな気持ちでカスミへ別れを告げたのか……考えただけでとても胸が痛むよ」
「ヴィオラは……」
「ん?」
「……ヴィオラは怒ってないのか、俺のこと」
彼女はなにも言わずにこちらへ目を向けた。
「あんなふうに追い詰めるような言い方しなければって後悔してるんだ。それでフェアリクス病の進行を止めることができたかどうかはわからないけど……でも、少なくともカスミが魔物化するのをもっと遅らせられたはずなんだ。こんなことになるなら、あのときカスミの頼みを聞いておけばよかったって──」
「ユーリ、わたしは怒っていないよ」
優しく言い聞かせるように遮ったヴィオラの声に言葉を飲みこむ。彼女は穏やかな微笑を口元へ浮かべたまま首を振った。
「……仕方がなかったとは言わない。だがユーリの判断が間違っていたとも思わない。ただ……わたしたちが救うには遅すぎたんだ。あそこで止めなければカスミは大勢の人間を殺めてしまうかもしれなかったし、カスミもそんなことは望んでなかった」
「でも……」
「大切なのはその最後にどう向きあえていたかだとわたしは思うんだ」
ヴィオラはそう言って微かに目を伏せながらそっと胸に手を当てた。
「本当に悲しいのは通じあえないまま別れを迎えてしまうことなんだよ。けれどわたしたちはちゃんとカスミを見送ることができた。カスミが伝えたかった想いも、受け取るべき言葉も、全部ここにある。あいつが笑顔でこの世界を去っていったのなら、悲しむ理由なんてないじゃないか」
「ヴィオラ……」
「それに、お前だって言っていただろう?」
「え……?」
「どんなにつらい記憶だって時がすべてを癒してくれる。きっと……アンゼリカにも。いつかカスミと過ごした日々が思い出として笑えるようになる日が来るとわたしは信じてるよ。だからもうそんな顔をするな」
からかうように頭を撫でられてしまい、彼女の柔らかな手のひらの下でユーリは小さくうなずいた。
「……実は、そのことでアンゼリカがわたしたちに壁をつくってしまうんじゃないかと心配してたんだ」
「そう思われても不思議じゃないよ」
「だがあの子なりにちゃんと受け止めようとしているのがわかっていまはほっとしてる。魔導術を教えてくれって頼まれたんだろう?」
「ああ……まさか俺を頼ってくるとは思ってなかったから驚いてるけどな。めちゃくちゃ嫌われてたのになに考えてんだろあいつ」
「わたしがそそのかしたからだよ。魔導術のことを勉強するならユーリに教わるのが一番だってな」
「そういうことか……」
まるで悪戯がうまくいった子どものように可笑しそうに笑ったヴィオラへ呆れを乗せた眼差しを向けながらため息をつく。どういう心境の変化だろうと不思議に思っていたがようやく納得した。
「とてもやる気になってるみたいだぞ? 今日もユーリが魔導術を教えてくれる約束してたのにってがっかりしてたんだ」
「約束? そんなもの……いやしたな、そういえば……」
シオンのこともあってすっかり忘れていた。
そんなに期待していたのかとなんとなく後ろめたさを感じているとヴィオラは小さく苦笑いを浮かべた。
「教えてやれるのはユーリしかいないし、いまは心を開ける相手があの子には必要なんだ。だからお前も嫌がらずにアンゼリカのことを気にかけてあげてくれ」
「別に嫌がってはいないよ。アイリスなんかよりもよっぽど真剣だしな。明日謝っておくよ」
「偉いぞユーリ」
そう言いながらまた頭を撫でようと手を伸ばしてきたのでユーリは身を引いてそれをかわした。
きっと、抱えているものがなにもないわけではないのだろう。それでもアンゼリカは俺たちに同行し、カスミとの別れに対してしっかりと向きあおうとしている。
せめてあいつがいっぱしの魔導士を名乗れるくらいの実力をつけるまでは。
それまでの成長を見届けることがいまのユーリにできるささやかな罪滅ぼしであるように思えた。