遠すぎた夢
夜更けになるとセントポーリアの街並みからはさっきまであった人通りがなくなっていた。遠くの方から泥酔した酔っ払いの声がしているがそれよりは静寂の方が大きく、通りを吹き抜けていく風の中にはより一層の冷たさが伴っていた。
「シオン、そんなとこで座るなよ」
「うん……」
あれから気を取り直したように明るい様子で学生時代の思い出話に花を咲かせ、ユーリの制止を無視して次から次へと飲み続けたシオンは店を出る頃になると自力で歩くこともままならないほど泥酔した姿に成り果てていた。
こんなに遅くなるとは思っておらず明日のこともあるので早く帰らなければならなかったが、シオンは店を出た階段を上りきったところで花壇の前に座りこんだままうつらうつらと頭を揺らしていた。
「シオン」
「うぅ……ごめん、飲みすぎた……」
「……ほら、肩貸して。送ってくから」
「うん……」
受け答えはできているが腕を取って引っ張り上げても立ち上がれないようだった。シオンにつきあってユーリも慣れない酒に酔ってしまい気分はよくなかったが、一つため息をついてシオンに背を向けてしゃがみ引き寄せた細い身体を気合を入れて持ち上げた。
うわ言のように呟くシオンから聞きだした住所に向かって歩きだす。頬を撫でていく冷気が酔いで火照った身体には心地よかった。裏通りから大通りに出てみても周りに通行人の姿はなく靴音だけが小さく響いていた。
「ごめんね、ユーリ……面倒かけて……」
「平気だよ、慣れてるから」
「おんぶするのが……?」
「面倒かけられることが」
「ふふ……ユーリも大変ね」
ユーリの背中で揺られながらまどろむような声でシオンが囁いた。髪の毛がさらりと耳元で揺れてくすぐったさを感じる。
「あの頃からユーリはすごかったけど……でもやっぱり子どもらしさが残っててどこか頼りなく映ることが多かったのに、もうすっかり手の届かないところまで行っちゃった感じ……」
「仲間からは未だによく子どもだって言われるけどな」
「それだけ、ユーリが心を開いているということでしょ……」
肩に回された腕が抱きしめるように微かな力をこめた。
「……ユーリが本当に信頼できる仲間を見つけたってことよ」
「それはシオンもだよ」
前を向いたままそう答えるとシオンはそっと笑みを零した。
「……わたしは違うわ。わたしにはユーリと同じ速さで歩くことができないもの」
「らしくないこと言うんだな」
「弱音を吐いているつもりはないわよ……? ただ……」
シオンはそこで区切るとそっと吐息しながらユーリの肩へ頬を乗せた。回されていた腕から眠りに落ちていくようにわずかな力が抜けていく。
「……わたしにとっては、ただの魔導士でいることすら遠すぎる夢だったみたい」
寝息が聞こえはじめるまでそれほどの時間はかからなかった。落ちないように彼女の身体を背負い直して歩き続けながら、ユーリは少しだけ感傷的な気分になっていた。
あの頃のままではなくなってしまったのはお互い様のようだった。
「俺はシオンに才能がないなんて思ってないよ」
前を向いたまま小さく呟く。そこに返事はなかった。聞こえていたとしても気休めにしかならなかっただろう。
つらい思いをして訓練に励み、知らない者たちのために命を懸けて戦い続ける。なぜ身を削りながらもそこへ向かっていくのかユーリには理解できなかったが、この国に住む多くの者たちにとって魔導士とは憧れの象徴であり人としての在り方を体現する存在であることに変わりはなかった。
やがて、シオンの言った住所まで行ってみると彼女が住んでいたのは大通りから少し外れた小さなアパートだった。郵便受けに記されていた名前を確かめて二階の一番奥の部屋まで行く。
「着いたぞ、シオン」
「うん……」
揺り起こしてみたものの返事をするだけで鍵を取りだす素振りがなかった。ここで帰っても玄関で力尽きてしまいそうな気がして、少し気は引けたもののユーリは彼女の鞄の中から鍵を探しだすと部屋の中へ入っていった。
玄関の先はキッチンとバスルームのある狭い廊下になっておりいくつも並んだ靴の先にスリッパが置いてあった。どちらかというと土足の方が多いが部屋履きと外履きを別々にしている家庭もそれほど珍しくはなく、ユーリはシオンのヒールを脱がすと靴を脱いで上がった。
まず目に入ったのは流しの中で水を張ったタライに沈んでいるいくつもの使い終わった食器だった。調理器具や調味料などは壁掛けの棚へきちんと並べられているものの足元にも空の酒瓶や紐で縛られた書籍の束がある。
そのまま廊下を進んでいった先はリビングになっており、中央にある小さな白いテーブルを挟んでベッドとその反対側にはタンスや本棚などが置いてあった。ひとまずユーリはベッドの上に乱雑に乗せられていた衣服をどかしてシオンを横にさせた。
ここまで来るあいだに少し汗ばんでしまい一息つきながら、そういえば学生時代も含めて彼女の家に来るのははじめてだと部屋の様子を言葉を失ったまま見回した。
部屋を横切る形で吊るされた洗濯物の下では畳んだままのタオルや衣服などが置きっぱなしになっており、本棚やテーブルのそばには魔導術関連の書籍がいくつも積み上げられていた。他にも化粧品類や中身の入った酒瓶、魔力の練習などで使っているらしいフェアリー結晶などが置いてあったが彼女からは考えられない散らかりようにユーリは驚いていた。
積み上げられた魔導書は魔導士としての初歩的な内容や戦闘用ではなく日常で使えるものといった危険性のないものばかりだったが、どれもよく読みこまれているようで散らかり具合に反して埃がついているものは見当たらなかった。
テーブルの周りにも同じように何冊もノートが積まれており、その中の一つを手に取ってみると各魔導術に対する彼女の考察や反省点などがびっしりと記されていた。
「シオン……」
彼女がどれだけ真剣に魔導士であろうとしているのか理解するには充分だった。ユーリはゆっくりとノートの中に目を通すとペンを探した。
ノートの最後にあるまだ使われていないページを開き、ユーリは目を閉じて意識の奥底に落ちた記憶を手繰り寄せていった。彼女の寝息を耳にしながら、しばらくのあいだ黙々とペンを走らせていた。
シオンのためにしてやれることはなにもない。けれどほんの少しだけ、彼女の友人として力になれることがあるとするなら。
そこに描いたのは以前ユーリがつくろうとしていた紋章陣だった。そう呼ぶには不透明な部分が多く大勢の魔導士が挑戦し挫折していくような未完成のかけらでしかない。
ユーリ自身も最後まで完成形がわからずいくつもの模様の可能性を残したままほったらかしにしていた。だが完成すれば強力な魔導術として機能する紋章陣になるという確かな感触だけはあった。
紋章陣の創造は無数の不必要なピースが混じる真っ白なパズルのようなものだ。ただ形を当てはめたところで魔導術として扱えるものになるかどうかはわからない。
だがそのための才能がシオンにはあると信じていた。きっと彼女ならこの紋章陣を完成まで導いていける。
それが彼女にとって手助けとなるのか、それとも長い迷宮を彷徨わせる足枷となるのかユーリにはわからなかったが、ひたむきに努力を重ねるシオンを思うとなにもしないままではいられなかった。
「……シオン、もう帰るから」
シオンは眠り続けたままなにも言わなかった。ユーリは郵便受けに鍵を入れておいたことと今晩の礼を書き置きに残して部屋をあとにした。