些細な憂い
町にひしめく賑わいは日暮れになっても衰えることはなく、セントポーリアの街並みが妖精灯の明かりで彩られても通りには大勢の観光客たちで埋め尽くされていた。
ホテルへ戻ってみてもロビーではたくさんの宿泊客たちが部屋の空きをカウンターで訊ねており、昨日よりもさらに遠方から訪れた者たちで町が溢れているようだった。
廊下を歩いていても相変わらずアンゼリカには何度かの注目が集まり彼女は居心地が悪そうに顔を伏せていたが、彼らの好奇な眼差しは昼間よりかは少なく、そしていくらか柔らかなものだった。
隠しきれないしっぽに気がつくとそれなりに不思議そうな面持ちを浮かべられるものの、魔女紛いの恰好をやめたことでアンゼリカはある程度周囲に溶けこむことができていた。
そうして部屋へ帰ってみるとカーテンを引いた窓辺のテーブルで魔導書を眺めているアイリスの姿があった。
「ただいまアイリス」
「あ、おかえりみんな」
どうやらずっと紋章陣の暗記を続けていたらしく、疲れているのかぼんやりとした様子で顔を上げたアイリスがそっと笑みを浮かべる。
「遅かったね」
「ああ、ちょっと選ぶのに時間がかかっていたものでな」
「なにを?」
「ほら、アンゼリカ」
ヴィオラに促されその後ろに隠れていたアンゼリカが顔を出すと、不思議そうに首を傾げていたアイリスは目を丸くして笑顔を浮かべた。
「あれ、どうしたのアンゼリカちゃんその帽子」
「……買ってもらったの」
どことなく気まずそうな雰囲気で伏し目がちに口ごもりながらアンゼリカが答える。その頭の上にはくたびれたとんがり帽子の代わりにモカブラウンのキャスケット帽が乗っていた。
「わあ、いいなーすっごい可愛い。似合ってるよ」
「あっそ……」
慣れない恰好に戸惑っているらしく目の前に来たアイリスを視界から追い払うようにつばの下で顔を伏せる。膝を突いたアイリスが顔を覗きこむとアンゼリカは微かに頬を赤くしながら顔を背けた。
「うんうん、やっぱりアンゼリカちゃんはそういう女の子っぽい恰好してる方がいいよ」
「……馴れ馴れしく見つめないで」
それが嫌悪でなく単なる照れ隠しだと気づいたアイリスは満面の笑みを浮かべながらアンゼリカの頭を撫で回し、けれどさすがに機嫌を損ねたのか彼女は乱暴にその手を振り払った。
「うざったい!」
「いたたっ……もう、そんなに照れなくてもいいのに」
「べたべたされるのは嫌いなのっ」
そう言ってヴィオラの後ろへさっと隠れしっぽの毛を逆立てながらいらいらした様子で睨みつけ、アイリスは仕方なさそうに苦笑いをした。
「ユーリは?」
「昼間のお友達の約束に行ってる。遅くなるだろうからあたしたちだけで晩御飯食べといてだってさ」
「そうか……」
「まあ、久しぶりに会うんだしね」
昼間の様子だとユーリならすっぽかすかもしれないと思っていたが、それよりもアイリスがそのことで不満そうにしていないのは少し意外だった。
自分にだけ勉強を押しつけて遊びに行くなんてアイリスなら文句の一つを言っても不思議ではなかったが、険悪な雰囲気も感じられないし不貞腐れているわけでもなかった。
「アイリス、面倒でしたが仕方なく買ってきてあげましたよ」
「あ、お土産? わざわざありがとう」
アイリスはナーガから包みを受け取るとさっそくソファーへ座って中に入っていたドーナツを食べはじめた。
どうしたんだろう。
それは違和感と呼ぶにはあまりにも些細なものだったが、ヴィオラはあえて普段通りに振舞っているような空気をアイリスから感じていた。ドーナツに感激の声を漏らしているがなんとなく上の空といった様子で確実になにか別のことを考えている。
エルフが持つ洞察力はそんなアイリスの小さな変化を見逃さなかったが、わざわざ問い詰めることでもないと思い気づかないふりをすることにしているとアンゼリカが少し浮かない顔で見上げてきた。
「お姉ちゃん、お友達って……?」
「ああ、昼間にユーリが士官学校に通っていた頃の知人と偶然再会してな。今晩会おうって約束してたんだ」
「……そうなんだ」
「どうした?」
「魔導術を教えてくれるって昨日約束してたから」
アンゼリカはなんでもなさそうにそう呟くとベッドに腰かけた。ドーナツを咥えていたアイリスが得意げな笑みを浮かべて振り返る。
「あたひがおひえへあへようは?」
「魔力の定量放出が及ぼすフェアリーへの性質変遷について教えてほしいの」
「んー……」
もぐもぐ。
まったく期待していなかったらしくアンゼリカはじっとりとアイリスに呆れの視線を送ると小さくため息をついた。
「明日はちゃんと教えてくれるから、今日だけ大目に見てあげてくれるか? 三年振りに会う友達なんだ」
「うん」
「そうと決まればわたしたちもなにか食べに行こうか。アイリスも晩御飯が入らなくなるからドーナツはその辺にしなさい」
「ふーい」
だらしなくソファーへもたれかかりながらドーナツを押しこんで気のない返事をする。真剣に心配をするほどのものではなさそうだったが、もぐもぐと咀嚼するその横顔には微かな陰りが窺えた。