ナーガのごちそう
「こ、来ないで……! 近寄るなー!」
「近づいてはいませんよ。少し踏みだしただけです」
「そんなこと言ってちょっとずつ近づいてきてるじゃない……! いい!? もう数センチこっちに来たらわたしの魔導術であんたなんか撃ち殺してやるんだから!」
「いいですよ、できるものなら」
「ねえ、もうやめてよぅ……!」
村を出ると決意したのはただ雰囲気に流されただけじゃないのかと訊ねたくなるほど不愛想だったアンゼリカはホテルの一室、割り当てられたヴィオラの部屋の片隅でキングサイズのベッドに隠れて怖々とナーガを見つめていた。
「だからな、アンゼリカ。ナーガはずっとわたしたちと一緒に過ごしているし、言葉は乱暴なところがあるが根は優しい奴なんだよ」
「でも、だって、ナーガってあの大蛇なんでしょ……!? 族長が言ってたもん、おっきな蛇を見かけたら一目散に逃げなさいって!」
ブラシュが用意してくれたブロッサムホテルは大通りに面した八階建ての大豪邸といった外観で周りとは一線を画す重厚な建物にアイリスたちは驚きの声を漏らしていた。
その内装にも非常に金がかかっているとわかる豪華さで広々としたロビーを抜けて絨毯の敷かれた階段を最上階まで行く頃にはいままで泊まっていた宿とは比べものにならないほど贅を尽くした設備に圧倒されっぱなしだった。
部屋もちょっとした運動ができそうなくらいには広く、壁一面に張られた大きなガラス窓からは広大なセントポーリアの景色を一望することができた。ベッドの他にはカラフルな小魚たちが泳ぐ水槽や、最近出版されたばかりらしい雑誌や書籍類の入った本棚、各地から取り寄せられた紅茶にお茶菓子のセット、ゆったりとくつろげる大きなソファーといった宿泊客をもてなすための家具類が新品のような清潔さで置かれている。
部屋以外にもホテルの一階には大浴場や三階にはビリヤード場、七階にもラウンジがあるそうでさすがは国内随一とされる高級ホテルは宿泊している客層もみんな財産にゆとりのありそうな優雅な面々ばかりだった。
それはともかくとして、部屋に着いて簡単にユーリたちのことを話してみるとやはりモイティベートの天敵はリリーコアルリスも含まれていたらしく、まるで茨のようにとげとげしていたアンゼリカはすっかり怯えてしまって借りてきた猫のように大人しくなってしまっていた。
いや、大人しくというよりは精一杯の虚勢を張って威嚇しているようだった。毛の逆立ったしっぽがぴんと天井を指している。
「お前らもリリーコアルリスは知ってるんだな」
「あ、当たり前でしょっ……? ただでさえわたしたちは弱い種族なのに、リリーコアルリスに見つかったら食べられちゃうじゃない……!」
「いくらなんでもモイティベートは食べないだろ」
「食べますよ」
呆れ混じりにため息をついているとすっとぼけた口調でナーガが答えたのでユーリは思わず間の抜けた声を漏らした。アイリスも驚いた様子で寝転がっていたソファーから身体を起こして背もたれから身を乗りだして訊ねる。
「冗談でしょ?」
「いえ、冗談ではありません。ナーガが生まれた頃は人間どもに追いやられて肉と言えばカエルや鳥などの動物ばかりしかお目にかかれませんでしたが、モイティベートなどの小型の魔物はごちそうのようなものですよ」
ぺろりぺろりと舌なめずりを交えた返事にさすがのアイリスも引いてしまったようで絶句したままナーガを見つめていた。とは言え、種族の違いで意外に思ってしまうだけでナーガの言っていることはユーリたちが家畜などを食べることとなんら変わりはない。とりあえずナーガは思いっきりアンゼリカをからかっている。
「わ、わたしのことも食べようとしてないでしょうね……?」
「しゃー」
「ひぅっ……」
実際に見たことはないだろうがやはり本能的に蛇への恐怖はあるらしく、帽子へ隠れるように目深に被って縮こまったアンゼリカを安心させるようにそっと抱きしめながらヴィオラが言った。
「そんなに怖がらなくてもナーガは信頼できるわたしたちの仲間なんだ。だからアンゼリカも驚くことがあると思うが、ナーガのことはみんなに黙っておいてくれるか?」
「でも……」
「大丈夫ですよ、この身体になってからは食の好みも人間どもに近づいてしまっているので。モイティベートとは一応の縁もありますしわざわざあなたを食べるほど腹ぺこではありません。人間だって小鳥を愛でる一方で焼き鳥を好むのです」
疑いの眼差しを完全に消し去ることはできなかったもののそれを聞いてアンゼリカはひとまず納得したように、けれど警戒するようにナーガから距離を取っていた。
「いろいろと経緯はあったが、そんな感じでわたしたちは一緒に過ごすようになったというわけだ」
「うん……」
そこで話を締めくくるとヴィオラは彼女の頭をぽんと撫で、アンティーク調のチェストの上に置いてあったティーセットの用意をはじめた。けれど水差しが置いてあるだけでお湯をどうすればいいのか考えるようにそばにあった器具をうろんげに眺めている。
「ユーリ、これはどう使えばいいんだ?」
「やるよ」
ユーリは彼女のもとへ行くと香炉のような形をした陶器の中へ備えつけの小さな木片を一つ入れ、置いてあったアロマージモーブの体液が入った小瓶を開けて中身を一滴垂らした。
すると木片からぼっと火が上がったかと思うとすぐに落ち着いて炭化し赤く熱を放ちはじめる。金持ちが道楽的に使うような簡易コンロのようなものだ。
「ありがとう」
そう言ってヴィオラが水差しからやかんへ水を注いで陶器の上に乗せ、紅茶の缶を開けて茶葉をポットに移しているとソファーの背もたれに頬杖を突いていたアイリスが天井を見上げながらおもむろに話しはじめた。
「あの大臣さんが言ってたきな臭いことってなんなんだろうね」
「ナーガたちのことを内緒にしているというのは少し気になります」
「念のための護衛だと思っていたけど、なにかしら危惧していることがありそうな気配だったな」
クッキーの入った高そうな缶を手にソファーへ行ったユーリはアイリスの向かいに腰を下ろした。想像以上に柔らかくてふかふかとしており思わず姿勢を崩しかけながら座り直しているとこちらへ振り返ったアイリスがきょとんとした様子で首をかしげた。
「なにかしらって?」
「それはわからないけど……でも用心して頼んできたってわけじゃなさそうだ」
「だよねぇ……」
考えこむようにうなずいたアイリスは小さくため息をつくとテープを剥がしてからふたをぱかっと開けた。そうして仕切りで分けられていた数種類の中から一つつまんでぱくりと頬張る。
「おいひい。うーいふんもはへはお」
「とりあえず明日詳しく訊いてからだな。なにを心配してるかもわからないしここであれこれ話しても仕方ない」
「なーははんもはへる?」
「けっこうです」
「これから式までわたしたちは空けることが多くなるだろうが、アンゼリカはそのあいだゆっくりしていてくれ」
湯気が吹きだしたやかんを持ち上げてティーポットへ注ぎながらヴィオラが言う。それから人数分のカップと一緒にお盆に乗せてテーブルまで運んでくると物陰に隠れていたアンゼリカはきょとんとした様子で顔を出した。
「一緒に行かなくていいの?」
「来ても仕方ないだろう。護衛に参加させるわけにもいかないし」
「そっか……」
「アンゼリカちゃん、このクッキーおいしいよ」
アイリスがクッキーを片手に缶を差し向けてみると彼女はこちらへやってきて一つつまむとソファーに座った。ヴィオラはティーポットを揺らしてカップへとてもいい色をした紅茶を注いだ。
「お小遣いをあげるから町で遊んでくるといい。一人だと退屈かもしれないがわたしたちも夕方には戻れるだろうから」
「うん」
さくっとクッキーを齧る。
式を控え盛り上がりを見せていることもあり遊ぶところには苦労はしないだろうが、それらのどこに興味を見いだせばいいのか見当がついていないようにアンゼリカは温度の低い表情でクッキーを頬張っていた。