あの日にも見た景色
この世界にはフェアリーを吸収して魔物化した動植物たちが蠢き人間たちは日夜その脅威に晒されている。多くの魔物は強靭な肉体に極めて狂暴な性質を持っており、ユーリたちの住んでいた世界とは違い人間は生活の場を追われ強固な壁に覆われた町の中でしか平穏を紡ぐことができなくなっていた。
町と町を繋ぐ街道は獰猛な魔物が闊歩し無防備に壁の外へ出てしまえばたちまち彼らの餌食になってしまう。魔導術という対抗手段を持ちながらもやはり人間は狩られる側の存在だった。
「……はずじゃないの?」
時折揺れる車内で外を眺めていたアイリスがきょとんとした顔で振り返る。
朝が来て昼が過ぎ、そろそろおやつにしましょうとアリューズが用意してくれていたクッキーを食べ終えても魔物はおろか動物一匹すら出会わなかった。
「首都の近くだし魔物の駆除が進んでいるんだろう。それに魔物たちが住処にしているような場所も少ないしな」
「いっつもそればっかり聞いてる気がする」
街道を進む馬車の周りには緑の生い茂る平原が広がっており、遠くの方にはちらほらと小さな森がいくつか見て取れる程度だった。山はあるが標高は高くなく、アリューズが持参していた本を読んでいたユーリは顔を上げながら言った。
「エーデルワイスの力も影響してるのかもな。お前といるようになってからめっきり出会わなくなったし」
いくら魔物の駆除が進んでいるとはいっても一匹も見当たらないのはある意味異常事態だった。母親のフェアリー結晶を持ち歩いているせいで遭遇率は高くなるかと思っていたが、アイリスの聖剣は想像以上に魔物に対して効力を発揮しているらしい。
目の前で置物のように微動だにすることなく外の景色を眺めているナーガを見ているとそんなふうには思えないが。
「アンゼリカちゃんはこの剣からなにか感じる?」
話しかけるきっかけを見つけてアイリスが笑みを向けてみると、ヴィオラと一緒にあやとりに興じていたアンゼリカはとんがり帽子の下でちらりと足元の聖剣を一瞥した。
「別に」
「え、そうなの? これエーデルワイスって言って、魔物を遠ざける力があるんだけど」
「……なにも感じないけど」
「そ、そっか……まあ、いいや。アンゼリカちゃんに嫌がられたくないし」
魔物同士のあいだに生まれた子どもはやはり魔物として生まれてくる。けれどそのようにして生まれた魔物も体内にフェアリーを結晶化させているわけではなかった。
ただ、成長していくにつれて他の魔物たちのようにフェアリーを吸収し徐々に結晶化させていく過程をたどることになるのでアンゼリカにもある程度のフェアリー結晶はできているはずだが、エーデルワイスが効いていないのには彼女に流れている人間の血が影響しているのかもしれない。
つまるところ、彼女は魔物ではないということだ。
けれどアンゼリカにはモイティベートとしての生き方を望んでいるような節があったので口にはしなかった。いまそれを打ち明けたところで受け入れはしないだろうし反感を買うだけだ。
「ところでアンゼリカちゃん、面白い遊びがあるんだけど興味ある?」
そうしてアイリスは気を引こうとしているのか膝の上に鞄を置くと中を漁りはじめた。
「遊びって」
「トランプっていうの」
カードが入った紙のケースを取りだしてくるとそれを差しだしながらにっこりと笑った。アンゼリカはついっと冷めた目でそれを見下ろして小さく鼻を鳴らす。
「いい」
「え、あ……え、興味ない?」
「ない」
「でもほら、せっかく仲良くなったことだし親睦を兼ねてみんなで一緒にやりたいなー?」
「別に仲良くなってない」
救いを求めるようにユーリたちを見回していたアイリスへアンゼリカが冷たく言い放つと、困った様子でヴィオラがため息をつきながら隣に顔を向けた。
「そんな言い方をしたらアイリスが傷つくじゃないか」
「でも仲良くなってないもん」
「なんでそんなにアイリスに冷たくするんだ?」
「うっとうしいから」
黙って話を聞きながらアイリスはショックを受けた様子で引きつった苦笑いを浮かべていた。それを聞きながらこっそり鼻で笑っていたナーガにも気にならないようで、ヴィオラは言い聞かすように帽子のつばを持ち上げてアンゼリカをまっすぐに見つめた。
「理由もなくそんな言葉を使うのはよくないな。アンゼリカだって言われたら嫌な気持ちになるだろう」
「理由ならあるよ」
「なんだ?」
「そばに来たらすぐに耳とかしっぽに触ろうとするの。いい加減うんざりしてるんだからぶん殴られないだけありがたいと思いなさいよね」
そんなふうに腕を組んでふんぞり返りながらじろりとアイリスを睨みつけ、ヴィオラはきょとんとしながらぱちくりとまばたきをするともう一度ため息をついて首を振った。
「アイリス……」
「違うの、聞いて! もふもふしてて可愛かったんだもん! でも違うの! そんなに嫌がってるとは思わなくって! ほら、猫って撫でられると気持ちよさそうにしてるからアンゼリカちゃんも気持ちよくさせてあげたいなーって、ほんとに! だから、その、違うの! あたし猫好きだもん!」
「お前はアンゼリカをペットかなにかと勘違いしてるんじゃないのか? そりゃこの子の絵に描いたような猫耳美少女っぷりを見れば激萌えするのも無理はない話ではあるが……」
と、唯一心を開いていたヴィオラから思わぬ言葉が飛びだしアンゼリカはびっくりしたように目を見開いていたが、いまは亡き親友に骨の髄までオタク文化に毒されながらも常識までは失ってなかったようでそっとアンゼリカの手に重ねた。
「アンゼリカの身にもなってやれ。住み慣れた故郷を離れ見ず知らずのわたしたちに囲まれて不安だってあるんだぞ? 前から思っていたが、お前は少し他人との距離の取り方が迂闊だ」
「う……ごめん、なさい……あの、ごめんねアンゼリカちゃん」
「……別にいいけど」
反省した様子で頭を下げたアイリスへアンゼリカはそっけなく言いながら顔を背けた。それからなんとなく車内に重い沈黙が漂ってしまい、すっかり気を落としたアイリスは儚げなため息をつきながら窓の外へ視線を向けた。
「あれ……」
すると拍子抜けしたような声がして本から目を離してみると、確かめるように少し身を乗りだして馬車の行き先を眺めていたアイリスが目を丸くしながら車内へ振り返った。
「ねえ、向こうに大きな町があるんだけど」
「町?」
ここからセントポーリアまでは目立った町などなかったはずだが、と疑問に思いながらユーリは読んでいた本を閉じると座席に置いて窓から顔を出した。
なんとなく見覚えのある町が平原の向こうに昂然と佇んでいた。真っ白なとても背の高い外壁が広い平原を塞ぐように緩やかな曲線を描いて伸びており、単純なつくりのものが多かった田舎町とは違い遠目からでも側防塔が無数に張り巡らされ居住塔なども設置されているのが見えた。
「ユーリくんあそこ知ってる?」
そしてその壁の向こう、町の中央からほんの少し顔を出したとても大きな城。顔を引っこめると前の席に座っていた三人もそれぞれに町の方を見て振り返り、続きを促すようにぽわりとした瞳を向けたアイリスへユーリも呆気に取られたような気分で答えた。
「セントポーリアだよ」
「え、到着するの明日じゃなかったの?」
「俺もそのつもりだったんだけど……とりあえず着いたみたいだな。よかったじゃん予定が縮まって」
とは言っても特に道中を急いだわけでもなく馬車は走れば追いぬけるほどの緩やかな速度で進み続けている。うろんげにこちらへ向き直った三人を尻目にユーリは馬車を出ると前の座席へ回った。
アリューズは座席に身体を横たえてすやすやと居眠りをしていた。傍らには退屈を紛らわせるための本が何冊か積まれており、それらは数種類の占いに関する本や恋愛小説といったものばかりでユーリが彼女から借りていたのも甘ったるい恋愛小説だった。意外と乙女な趣味を持っているらしい。
馬は手綱を手放されてもまるで意に介した様子もなくまっすぐセントポーリアへ向かっていた。
「アリューズ、起きろ」
声をかけながら肩を揺すると彼女はすぐに目を開けた。それからあくびを漏らしながらゆるゆると身体を起こして大きく伸びをしながら眼前にあるセントポーリアへ気がついて声を漏らす。
「あれ、セントポーリアじゃありませんか」
「寝るなよ、一応は仕事中なんだから」
「わたしはこう見えて合理主義なんです。疲れも溜まっていましたし休めるときは休まないと、魔導士の仕事ってぶっちゃけだるいんです」
「馬車が変なとこ行くかもしれないだろ」
「この子たちは街道を進めば大丈夫だと知っているのでご安心を。それに、ユーリさんたちもさぞ退屈を持て余していましたでしょうから道を外れればすぐに気がつくという読みもありました」
今度の件に抜擢されたのは彼女の実力を加味してのことだろうが、もう少し経験を積んだ責任感のある魔導士にしてほしかった。
などという文句を口にしてもしょうがなかったのでユーリはため息をついて言葉を飲みこんだ。アリューズも会話に混ざれずひまだったのだろう。仕事をする上で最も厄介なのは無為な時間だ。
すると後ろの小窓が開いてヴィオラが顔を覗かせる。
「到着は明日だったんじゃないのか?」
「そのつもりだったんですがどうやら計算を誤っていたようです」
「えらいすっとぼけた誤り方をしたもんだな」
「延びるよりはよかったじゃないですか」
ちっとも悪びれた様子もなく平然と言ってのける。
どうせあの手描きの地図を頼りに計算したのだろうが縮尺も地理も適当なのにこれで大丈夫と本気で信じていたのだろうかこの女は。
「なにか」
すると少し気を悪くしたようにじめっとした目で睨まれたのでユーリは首を振った。
「なんでもないよ。それで、このあとの予定はどうなってるんだ?」
「到着次第城へ向かうことになっています。まずは大臣の……えー……名前は忘れましたが、なんとかという方に会って式典の流れなど説明していただけるのではないでしょうか。ひとまずお城へ行きます」
と、そんなふうにかなりざっくりとした説明を丁寧にしてもらいユーリはセントポーリアへ目を移した。
「城までは同行しますがわたしは一度そこでみなさんとお別れして軍本部へ報告に行きますので」
そう言ってアリューズは鞄の中からこの国の紋章が描かれた封筒を取りだした。
「その後の予定については直接お訊ねください」
「わかった」
気は進まないがこれも借金を片づけるためだ。
彼方に窺える城は三年前に出ていったときと同じ姿でそこに佇んでいた。