深夜の見張り
焚き火が立てるぱちぱちとした音の合間で鈴虫の鳴き声が辺りから静かに響いていた。真夜中にもなると相変わらず空気は冷たく、時折吹くそよ風は肌寒さを感じる程度の冷気を帯びている。
日が暮れた頃に馬車を停めると食事をしてから適当な会話で時間を潰し、彼女たちは街道沿いに張ったテントの中へ入って眠ってしまった。ユーリは見張りのために起きており静かになってからそろそろ三時間ほどが経過しようとしていた。
ひまだ。
もう一時間ほどすればヴィオラが代わってくれることになっているが、もうずいぶん前から何度も頭の中にひまという文字が浮かんでは消えていった。二人で見張りをすればある程度退屈さは紛れそうだが夜中の会話はよく響くせいで既にユーリたちのあいだでは私語厳禁という暗黙のルールができあがっていた。
頭上を見上げると数えきれないほどの星の光が互いに微かな明滅を繰り返しながら瞬いており、それらを包みこむ真っ暗な夜空にはまるで綿雲のようなとても深い青が入り混じっていた。
この世界っていったいなんなんだろう。夜空を見ているとふとした瞬間にそんなことを思う。なにもかもが生きていた頃とは違うのに空だけは同じ色をしていることが不思議でならなかった。
死んだ魂へ働きかけたなにかがユーリたちをこの世界へ運び、けれどここはどこに存在しているのか見当もつかなかった。あの空のどこかに地球があるとも思えなかったし、かといってもう一つの宇宙の中にいるというのも釈然としない。
そして、そんなふうに死者の魂を自由に扱える天使たちはいったい何者なんだろう。便宜的に天使と呼んではいるものの、あんなものが神様だとはやはりユーリには信じられなかった。
この世界に平和をもたらすために与えられた力を行使するのが転生者の役目だ。けれどそうして戦いの果てに待っているのはカスミのように魔物化してしまう末路だ。
魔王を倒すために戦った転生者が新たな魔王となって脅威を振りまき、やがてまた別の転生者が使命を背負ってやってくる。
俺たちはなんのために戦っているのだろう。それとも、戦い続けていればいつかは終わりが来てくれるのだろうか。
だが、きっとそんなものはやってこない。新たな魔王種の誕生は決して避けては通れない出来事なのだ。人が魔導術を手放せない限りは、かならず。
ユーリは空を見上げたまま小さなため息を風に乗せた。
ときどき見上げる分にはきれいだと感動することもできるがアンスリムを発ってからは何度も見張りをする機会に恵まれたおかげですっかり見飽きてしまっていた。
それに加えてアイリスとナーガは見張り中に居眠りをするせいで任せることができず、必然的にユーリとヴィオラが代わりをしているというのも拍車をかけている。
アイリスはともかくナーガについてはむしろ誰よりも真面目に見張りをしてくれそうな気配を見せているが、以前見つけたときは完全に寝る体勢に入っており最初から見張りという役目を放棄しているかのような眠りっぷりだった。
焚き火を絶やさずなにもない平原のど真ん中でずっと座ったまま、小さな枝を指のあいだでぶら下げて意味もなく振って退屈を持て余していると背後のテントからがさごそと音がした。
まだ交代までは時間があると思ったが目を覚ましてしまったのかと振り返るとテントから出てきたのはアンゼリカだった。
「あ……」
「よう、トイレか」
「……あんたには関係ないでしょ」
まるで愛想のないつっけんどんな口調で言うと彼女は一度テントへ引っこみ改めて外へ出てくる。その頭には大きなとんがり帽子が乗っかっており、アンゼリカは口元を手で覆いながら小さくあくびをすると靴を履いた。
アンゼリカはヴィオラ以外にはずっとこんな調子だった。
カスミを連れ去ろうとした敵という認識のまま気に食わない相手だと思われているのかもしれないが、健気に仲良くなろうとするアイリスと違っていちいち真面目に取りあうのも面倒で焚き火へ向き直って枝を揺らしていると彼女が背後へ足音も立てずに近づいてくる気配を感じた。
「なにしてるの」
「見張りだよ。魔物が来たら怖いだろ」
「別に」
それから少しのあいだ沈黙が漂い焚き火がぱちっと音を立てた。なにをしに来たんだろうと思って振り返ってみると後ろに突っ立って焚き火をじっと見つめていたアンゼリカがじろりとユーリを睨む。
「なによ」
「別に」
「だったら見ないで」
「お前が後ろに立ってるからじゃん」
「お前じゃない、わたしちゃんと名前があるの」
「俺もユーリって名前があるんだ。あんたじゃなくてな」
「……細かい男」
ぼそっと呟いたアンゼリカのお尻の方でしっぽがぴしっと太ももを叩く。しっぽの部分だけはちゃんと猫っぽくてよかったな、とユーリは思った。
アンゼリカはもうしばらくユーリの後ろに突っ立ったままでいたが、足音を立てずにユーリの向かいへ行くとこちらには目もくれずに焚き火の前へしゃがんで両手をかざした。
なにか話しかけた方がいいだろうかと思ったがどうせとげとげしい返事が来るだけのような気がして無視していると、彼女はユーリに頭が見えないように帽子を持ち上げると思い悩むような表情を浮かべていた。
どうやら聞こえてくる音に耳を澄ましているらしい。それからアンゼリカは立ち上がると辺りをきょろきょろと見回した。
「どうした」
「別に、あんたに関係ないでしょ」
ぶっきらぼうに答えながら遠くを眺めていたアンゼリカは帽子を被り直すと一度テントへ目を向け、そうしてユーリへじろりと視線を移した。
「ねえ、魔物がいるんだけど」
「どこに」
「あそこ」
そう言われて彼女が指さした方を見てみるとたしかに平原の向こうで四足歩行の動物が一匹歩いているのが見えた。こちらに注意を向けているのか時折足を止めて振り向いているような仕草を見せているが、魔物かどうかはともかく近寄ってくる気配はなかった。
「ちゃんと見張りなさいよ」
「そりゃ魔物くらいいるだろ。襲ってくるようなら相手するけどかたっぱしからやっつけてたらきりがねえよ」
「……あっそ」
どうでもよさそうに答えるとアンゼリカは再び焚き火の前へしゃがんだ。けれどすぐに立ち上がってはまたしゃがみ、と落ち着きなくそわそわとしておりそのあいだに何度かテントを見ている。
あまりじっくり見ているとまた文句を言われそうだったので焚き火を眺めていると、アンゼリカも焚き火をじっくりと見つめながらやがて顔を上げた。
「ねえ」
「なんだ」
「……魔物が襲ってこないか、ちゃんと見てて。トイレ行ってくるから」
「ああ」
小さなため息と共にアンゼリカが立ち上がり焚き火を離れて大地に突き刺さっている大きな岩がある方へ歩いていった。この辺りにはどうやら危険な魔物は潜んでいないようだが念のために辺りを見回しているとアンゼリカは途中で足を止め、それからきょろきょろと周りを見てから少し早足で引き返してきた。
「どうした」
訊ねてみてもなにも答えず、けれど困った顔をしながらそばに積んであった薪をそっと焚き火の中へ放りこむ。アンゼリカはちらっとこちらを見ると言いづらそうに帽子を深く被りながらうつむいた。
「見ててくれない」
「ちゃんと見てるから安心して行ってこい」
「……そうじゃなくて、ついてきてって言ってるのよ」
そわそわ。
太ももを擦りあわせながらもぞもぞとしておりかなり我慢の限界が来ているようだった。けれどさすがに嫌々頼んでいるのはわかったのでユーリはため息をつくと立ち上がってテントへ振り返った。
「ちょっと待ってろ、ヴィオラ起こしてやるから」
「もう待てないのっ……早く……!」
声を荒げたアンゼリカが服の袖を掴んでぐいっと引っ張った。思わず転びそうになりながら仕方なくついていくと彼女は全力で駆けだしていき、大岩のところまで行くと手を離して慌ただしく走っていく。
「離れて耳塞いであっち向いてて!」
まったく余裕がなかったらしく陰に駆けこみながらスカートに手をかけており、背を向けているうちに音が聞こえはじめたのでユーリはため息混じりに耳を塞いだ。
魔物の潜む森での暮らしが長く連中に対してはそれほど恐怖心がないものだと思っていたので少し意外だった。
それから頃合いを見計らって振り返ってみるとなんとも言えない表情を浮かべたアンゼリカが岩陰から出てきたのでユーリは耳から手を離した。彼女はこちらを見上げ、それから目を伏せて帽子を目深に被ると近くを流れていた小川の方へ歩きだした。
「なにぼけっと突っ立ってるの」
振り返ったアンゼリカがしっぽを振り回しながら不機嫌そうに言った。
「手を洗いに行くのよ」
「待っててやるって」
「ついてきてよ危ないでしょ」
三十秒もあれば手を洗って戻ってこれる距離でなんの心配をしているのかわからなかったが、疑問に感じているあいだにしっぽはぴしぴしと苛立たしげに彼女を叩いていたのでユーリはなにも言わずにあとを追った。
「魔物は怖くないんじゃなかったのか?」
「怖くないわよ」
「そんなびびんなくても慣れてるだろお前」
「お前じゃない」
「アンゼリカ」
「魔物は平気だけどおばけが苦手なだけ」
「……なんだそっちか」
思いのほか普通の反応に拍子抜けしていると小川のそばにしゃがんでぱちゃぱちゃと手を洗っていたアンゼリカが立ち上がってじろりと睨んだ。
「なによ、なんか言いたいことでもあるわけ」
「目つき悪いな」
「あんたの顔の悪さよりはましでしょ」
「ユーリだよ」
そう言って持っていたハンカチを差しだすと彼女はぷいっと顔を背けてすたすたとテントの方へと歩きだしていく。
「馴れ馴れしくしないで」
「……そのテンションでよくついてくるって言いだしたな」
「言いだしたのは族長でしょ」
「うなずいてたじゃん」
「うるっさいわねぇ、あんたさっきから細かいのよ。だったらなんなの?」
「ついてきてなにをしようとか考えてるのか?」
訊ねた途端にアンゼリカは足を止めた。仕方なくユーリも立ち止まってみると、彼女は背を向けたまま帽子をぎゅっと目深に被って考えこんでいるようだった。
「まあ、急に旅に出ろって言われてすぐに目的が見つかるわけじゃないとは思うけど」
「……わたしがなにかの役に立つと思ってるの」
「なんだそれ」
振り返ったアンゼリカは少しだけ気まずげな顔をしていた。
「その……魔導術が使えると思ってるのかなって」
「魔導士なんだろ?」
村でそんなふうに言っていたはずだったが、アンゼリカはその問いかけに対して帽子のつばを伏せるとゆっくり首を振った。
「お姉ちゃんから魔導術を教わったことはあるけど……その、まだあんまり上手に使えなくて……」
「なんだ、そうだったのか」
「そうだったのかって……それだけ?」
アンゼリカは驚いたように顔を上げるとユーリを見つめ、それから少しだけ困った顔をした。呆れ混じりにため息をつきながらユーリは言った。
「別に魔導術が使えないくらいでがっかりしないって。だいたいお前の歳じゃ魔導術を使うのは早いくらいなんだから手を借りようとも思ってないよ」
「……じゃあなんであんたは断らなかったの」
「どうしてもだめだってほどの理由がなかったから、かな。ヴィオラとも縁があったし」
「そう、なんだ……」
アンゼリカは曖昧な表情で返事をすると物思いに耽るように足元へ目を落とした。
「……なにをすればいいのかわからないの」
「とりあえず姉ちゃんが言ってたように旅先でいろんな経験してみれば? これから行くセントポーリアなんかお前が知らないものだらけで楽しいんじゃねえの」
「迷惑じゃないの、ただついてくるだけで」
「そう思うんだったら自分で考えて思いついたことをすりゃいい。途中で放りだしたりしないから勉強だと思っていろいろやってみろよ」
「いろいろって?」
「一人でトイレ行けるようになるとか」
「……あんたに訊くんじゃなかった」
吐き捨てるように言い残すとアンゼリカはぷいっと顔を背けてさっさとテントへ戻っていった。するとちょうどヴィオラがテントから出てくるところで鉢合わせたアンゼリカが気まずげに彼女を見上げる。
「あ、お姉ちゃん……」
「ああ、アンゼリカ。起きてたのか?」
「……ううん、トイレ行ってただけ。おやすみ」
手早く靴を脱ぎ捨ててテントへ入っていったアンゼリカを不思議そうに見送りながら、ヴィオラは焚き火のそばへ座ると身震いしながら手をかざした。
「夜になると寒いな……」
「まだ交代までは時間あったのに」
「二人の声が聞こえたんだ。なんだか機嫌が悪そうだったが……なにかあったのか?」
最後の方は声を潜めながら言い、ユーリは薪をいくつか焚き火へ足しながら首を振った。
「なんでもないよ」
「だったらいいんだが……」
「なにか飲むか?」
「いや、自分でやるよ。見張りお疲れさま。ユーリもぐっすりと寝ておいで」
そうしてヴィオラは優しく微笑み、ユーリも素直にそれに甘えることにした。
「じゃあおやすみ、なんかあったら呼んでくれ」
「ああ、おやすみ」
せめてあの険悪な雰囲気が早々になくなってくれればいいんだけど。ユーリは少しのあいだテントへ視線を投げかけると小さくため息をついて馬車に入っていった。