空に願う言葉
夜のうちに唐突に天候が崩れ、燃え広がっていた火災は一晩中降り続けた雨によって徐々に勢いを弱めフージェからの応援部隊が明け方に到着する頃にはほぼ完全に鎮火していた。まるでそうすることが役目だったように雨は上がり、森の一部を焦土と化しながらも壊滅的な被害は免れていた。
駆けつけた魔導士たちにはアリューズから報告が成され、それを受けて一同は驚きを隠せない様子だった。
魔物化したばかりとはいえ魔王種との戦いをたった数人の戦力で乗りきり、そして大きな被害もなく軽傷で済んだのは奇跡に近かった。
だが、それはユーリやアイリスの力があったからではない。
カスミの死に心を痛め深い悲しみに包まれる村の住人たちを目にして彼らはその理由を察した。そしてアリューズと共に魔物化する直前から撃破までの経緯を調べるとやがて彼らはフージェへと引き上げていった。
明け方には霧のようにくすぶった煙が漂っていたが日が昇るにつれて少しずつ晴れていき、森の中にはその余韻として湿り気のある焦げたにおいが立ちこめるだけだった。
アリューズの指示に従い村から避難していたおかげで住民たちに怪我はなかった。だが火災は彼らの村を巻きこんでおり、外敵の侵入を防ぐための茨のカーテンは半分以上が焼け落ちいくつもの家が被害に遭ってしまったという。
その中にはカスミの暮らしていた小屋も含まれていた。あとに残ったのは焼け焦げた柱だけだった。
「形あるものはいつか朽ちていくもの。命も同じじゃ。しかしすべてが失われたわけではにゃい。あの村で共に過ごした日々はいまも我々の心に息づいておる」
積み上げられた石の山を見上げて杖に両手を乗せながら族長が言った。
村民たちがそれぞれに別れや感謝の言葉を贈りながら一つずつ積み上げていった石の山だ。彼らは別れを惜しみながらも後片づけのために村へ引き上げてしまい、残されたのはユーリたちだけだった。
周りには同じようにいくつもの石の山が連なっていた。ここは彼らが墓地にしている森の一角で、石の下には村で一生を終えた彼らの仲間たちが埋葬されている。
だがここにカスミの遺体は埋まっていない。ヴィオラの精霊魔法の光に包まれ、跡形もなく消えていったからだ。
「……思い出しか持っていけないなら、もっとたくさん欲しかった」
膝を突いて帽子を胸に抱えながら墓をじっと見つめていたアンゼリカが小さく呟いた。その言葉は誰かに向けたものではなかった。少なくとも、その相手はここにいなかった。
「本当は、生きていてって言いたかった。魔物になっても、どんな姿になっても、お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん」
「……カスミは、アンゼリカの幸せだけを願っていたんだよ」
そばに寄り添うように佇んでいたヴィオラがそっと口を開く。
「誰よりも、自分の命よりもお前のことをずっと大事に想っていたんだ」
「……わかってる。わからないはず、ないじゃない」
微かにうつむいた肩が小さく震えた。しばらくのあいだ、アンゼリカはそのまま動かなかった。やがてゆっくりと息を吐きだすと背を向けたままなにげない声で言った。
「お姉ちゃんがね、よく話してたの」
「ん?」
「ものすごく熱烈なファンがいたんだって。考えてもない設定のことまで訊いてきたり、こんなお話にしたらいいんじゃないかって口出ししてきたり、早く続きを描いてくれって急かしてきたり。集中できなくてうっとうしかったって」
でもね、とアンゼリカは続けた。
「そんなふうに話してるときのお姉ちゃんはいつも笑ってたんだ。いろいろあったこと……転生者になる前のことはあんまり教えてくれなかったけど、この世界に来てよかったって」
「あいつが、そんなことを……」
「だからね、お姉ちゃんの人生はきっと幸せできらきらしてたと思うの」
「……早く読んでと描き上がったばかりの原稿を持ってせがんできたのはカスミの方なのにな」
その情景を思い描くように、まるで過ぎた日々を思い返すように呟きながら。
「カスミとの出会いは、わたしの宝物だよ」
ヴィオラはそっと、柔らかな笑みを浮かべた。
乾燥した爽やかな風が森の中を軽やかに吹き抜けて木々を優しく揺らしていった。遥か上空のよく澄んだ青空を薄い雲がいくつか流れ、風になびいた栗色の髪を押さえながらアンゼリカは勢いよくぱっと立ち上がりながらあっさりとした口調で言った。
「よし……じゃあ、帰ろっか」
「……もうよいのか?」
「うん、たくさん文句を言ったから」
「他に言うことがあるじゃろうが」
「……言わなくてもわかるよ、お姉ちゃんなら。それに、わたしのことを見ててくれるって約束したもん。だから強くならなくちゃ。いつまでも泣いてたらお姉ちゃんが困っちゃう」
そうしてどこかすっきりとした表情で振り返り、それまでずっと黙ったままでいたユーリたちを意識の外に置いていたのか彼女は少し慌てた様子で帽子を目深に被った。
「……あんたたちも、なんか言っていけば」
「俺か?」
「他に誰がいるのよ。ていうかなんかわざととぼけてない? むかつくんだけどその態度」
「お前には言われたくねえよ」
ユーリは呆れ混じりにため息をついた。
アイリスがさっきから涙ぐんでいる気配は伝わっていたが隣に目を向けると彼女は堪えきれずドレスの袖でぐしぐしと涙を拭っており、促されて墓の前まで行くとめそめそと泣きながら手を合わせていた。
「これはなにをする儀式なんですか」
「心の中でなにかしら言葉を贈るんだよ。そしたらカスミに届く」
「……では蹴られた恨みでも」
「なんでもいいけど口に出すなよ」
ナーガと並んで墓の前に座ってみたものの、神を信じないユーリにはこんな祈りが本人に届くとは到底思えなかった。
死者へ向ける言葉は自らを救うための慰めでしかない。届けたかった言葉、伝えられなかった想いをそうすることで空へ帰せたのだと信じるために。
だとすればしっかりと別れ際の言葉を交わせたカスミにいったいなにを言えばいいというのだろうか。
「っ……ユーリ、ぐんっ……ぢゃんど、じてっ……」
というようなことを考えているのがばれるわけなどないのだが、なぜかアイリスがじっとりとこちらを横目で睨みつけてきたので怒られる前にお祈りをしておくことにした。
もしかしたら届くかもしれない。そんな奇跡があったっていい。カスミは必死で生きていた。
けれど深く思い入れのある相手でもなかったので浮かべる言葉が見当たらず、仕方なく来世は転生者にならないような人生を送ってくれと我ながらどの口が言っているのかわからない言葉を贈った。
あのときと同じ過ちはもう繰り返さないと誓ったはずなのにな、とユーリは自嘲した。
けれど悲劇的な結末ではないような気がした。
もしかしたら、あいつも自らの命が消えていく瞬間にはカスミと同じ気持ちでいてくれたのかもしれない。
決して与えられた運命を呪わず、不幸だと嘆くこともなく、この世界の幸せだけを願って。
それはただの願望だったかもしれないけど、去り際に見せた笑みを思い返しているとそんなふうに思えてしまうのだった。
「……そろそろ村に戻るか。片づけ手伝うよ」
「それには及ばんよ。怪我もしておるし力仕事は酷じゃろう」
「まあな」
目立った傷などはないがユーリたちはそれなりに怪我をしていた。ヴィオラに至っては頭や腕に包帯をぐるぐると巻いており、本人は心配ないと言いながらも歩くたびに時折声を詰まらせている。
魔王種を相手にして歩き回れる程度の怪我で済んだなんて本当に幸運としか言いようがない。
「家は新たにこしらえにゃければならんがそれものんびりとやるわい。それよりも……」
と、族長は杖に両手を乗せて地面をがりがりといじりながら口ごもった。やがてわざとらしく咳ばらいをするとユーリを見上げて言った。
「あんたらに一つ頼みがあるんじゃ」
「なんだ?」
「……アンゼリカをあんたらと一緒に連れていってはくれんじゃろうか」
不貞腐れたようにそっぽを向いてしっぽをふりふりと動かしていたアンゼリカが驚いた様子でこちらへ振り返る。
「なんで、どうしたの急に」
「そろそろ村を出ていってもよい年齢になったじゃろう。こんな小さな森に閉じこもってにゃいで、お前はもう少し世間を知らなければならん」
「だからってそんなこと言われてもっ……」
「もう村を守ってくれていたカスミはいなくなったんじゃよ。神羅万象が時の移ろいに流転していくように、前へ踏みだすときが来たんじゃ」
アンゼリカは戸惑った様子で族長を見返していた。そうして帽子を掴みぎゅっと深く被りながら問いかける。
「このまま村にいちゃいけないの……?」
「そうじゃ」
「わたしがみんなと違うから……?」
「そうじゃよ」
「人間の身体をしてるから、邪魔になっちゃったの……?」
「それは違う」
族長はゆっくりと首を振ると手を伸ばしてアンゼリカの帽子をそっと持ち上げた。微かに涙を浮かべていたアンゼリカが怯えたような表情を浮かべる。
「お前は紛れもなく我々の仲間であり大切な家族じゃ。どんな姿をしていようとお前には我々と同じ血が流れておる」
「じゃあ、なんで……」
「仲間だからこそ、お前はその姿で生まれてきた意味を見つめなければならん。我々とは違う姿をしている故の魔物から身を守る術、共に暮らしていくための知恵、自分自身の在り方をな。いつまでも守られてばかりではお前はいつか本当に一人ぼっちになってしまう」
族長は決心がつかない様子で足元を見つめていたアンゼリカの目元を手の甲で拭いながらしんみりとした口調で言った。
「……それに、カスミも常々言っておったんじゃ。外の世界を見せてやりたいとな」
「お姉ちゃんが……?」
「我々にはできないこと、アンゼリカだけにできることがたくさんあるんじゃよ。それを知るために行ってきなさい」
「みんなとはもう会えなくなるの……?」
あまりにもアンゼリカが悲しげに呟くのが面白かったのか族長はそれを聞いた途端に大笑いをした。それから苦しそうに何度か咳きこみ、しっぽで背中をぽんぽんと叩きながら言った。
「いつでも帰ってくればええじゃろうに。ここはお前の家にゃんじゃ、旅先が楽しかろうとたまには顔を見せてもらわんと寂しいわい。それとな」
そう言いながら族長は手招きをして、怪訝そうに顔を寄せたアンゼリカへ内緒の悪だくみでもするように耳打ちをした。
「お土産をたんまりと持って帰ってくるのを忘れるでにゃいぞ。わしの分だけ多めに頼む」
「もう……」
そう言われて不安がなくなったのかアンゼリカが呆れたように笑みを浮かべ、族長がこちらへ振り返った。
「そういうわけにゃんじゃ。あんたら次第ではあるが……」
「連れていくって言ってもな……」
こんな幼い子どもを連れていけるほど安全とは言いきれなかった。命を落としかねない危険に遭遇することもあるだろう。
他の三人も気軽に承諾できる話ではないとわかっているのか口を出してくることはなく、そんなふうにユーリが思い悩んでいると族長はしゅんとしたように肩を落とした。
「ヴィオラティアさんはカスミと十年来の親友でもあるし、頼めるのはあんたらしかおらん。後先短い老いぼれの頼みじゃ、どうか聞いてくれんかのぅ……」
「二つ返事でうなずけるほど余裕があるわけじゃないし……だいたい、お前はそれでいいのか?」
「……そっちがそれで、いいなら」
不本意そうではありながらもアンゼリカはそう答えてそっぽを向き、どうしたものかと思っていると族長がぎゅっと柔らかな肉球のついた手でユーリの手を握った。
「どうかアンゼリカをよろしく頼みます」
「いや、まだいいって答えたわけじゃないんだけど」
「このご恩は一生忘れません。やはり転生者ともなるとお心が違う。ありがたやありがたや……」
「じじい、遠くなった耳の代わりに寿命近づけてやろうか」
まるで聞く耳を持たずありがたやと手を揉まれてユーリがため息をついていると仕方なさそうにアイリスが言った。
「いいんじゃない? いろいろと縁もあるし、断れないでしょ。ね、ヴィオラ」
「そうだな。カスミもそう言っていたというなら、わたしは喜んで引き受けるよ」
「どうなさいますか魔王様。ナーガはいつでも手のひらを返すつもりです」
「……わかったわかった、好きにしてくれ」
満足に戦う術を持たない少女、それも猫の耳としっぽつきだなんて考えただけで心配事しか思い浮かばなかったが、あれだけ彼女たちの話を聞かされればさすがに断る選択はユーリもできなかった。