染まっていく瞳
興奮を抑えきれない様子で魔物は咆哮を挙げながらそばにあった大木を殴りつけた。その一撃で幹は大きくめりこみ砕けたような音を立て、木々を掴むと同時に地面を蹴って弾きだされたように一気に襲いかかってきた。
「カスミ、すまない……!」
ヴィオラは咄嗟に声を荒げながらカスミを支えていた手を離し腰に差していた剣を抜き放ちながら前に出て迎え撃った。
こちらの頭へ噛みつこうと魔物が大きな口を開いて牙を剥き、強く地面を踏みつけながら渾身の力で剣を振り下ろしていく。
硬い金属を打ったような衝撃が痺れとなって手のひらへ伝わり、魔物は刃を食いこませながらも額で斬撃を受け止めていた。だが突進の勢いがまるで止まっておらず押し返そうとした足が地面を滑りそのままヴィオラへ体当たりを仕掛け、突き飛ばされて体勢を崩したところへ岩石のように硬い拳が腹部に突き刺さった。
喉にふたをされたように息が詰まる。身体が宙を舞った。木の葉のざらついた感触が頬を撫で強い衝撃が背中に走り、痛みが全身を駆け巡ったのは地面に落下したあとだった。
「は、あっ……」
腹の底から鈍く重い痛みが手足の感覚を薄れさせる。胸を守っていた白銀の鎧が砕けていた。その指先に剣の柄を感じて強く握り直す。離さなかった。気絶しそうな一撃をもらってしまったが、剣は握りしめたままだった。
魔物は倒れたまま動くこともできずにいたカスミへ襲いかかろうとしていたが、ヴィオラは痛みを堪えて立ち上がり呼吸を止めながら一瞬で肉薄した。
「はぁあっ!」
魔物の頭部を狙って剣を真横に薙ぎ払う。相手の反応も早くのけ反って斬撃をかわそうとしたが切っ先が頬を切り裂きそばにあった木々に血が飛び散っていく。
ほんの一瞬怯んだように見えたが魔物はすぐにヴィオラを睨みつけると後ろへ飛び下がった反動を利用して再び飛びかかってきた。
真正面からぶつかっても当たり負けをするだけだ。
ヴィオラは剣を構え直しながら素早く呼吸を整えて相手の攻撃に合わせて懐へ潜りこんだ。頭上を大木のように太い腕が交差し風圧で髪の毛が揺れる。ぎりぎりのところで脇をくぐり抜け、ほとんど同時に振り返ったが予測していた分ヴィオラの方が速かった。まっすぐ貫いた刃の先端が魔物の首に突き刺さる。
「ちっ……!」
だが、まるで金属が詰まっているかのようにそれ以上深く入っていかなかった。皮膚の薄い部分を裂いただけに過ぎない。とても固い表皮と分厚い筋肉で刃が通らなかった。真横から払いのけるように魔物が腕を振るう。
「うわ……!?」
回避が間にあわず全身を握り潰されるような握力で身体を掴まれたかと思うと視界が急激に反転し、空が見えた途端に木々が高速で横に流れて地面が激突してきた。土の香り。方向感覚がどこかへ消える。世界がぐるぐると回転した。状況に頭が追いつかず痛みよりも混乱が大きかった。背中に強い衝撃が走ったところで世界は回転を止めた。
痛い。口の中を切ってしまったらしく血のにおいが充満していた。こめかみの辺りがお湯に浸かっているように生ぬるい。握りしめていたはずの感触がなくなっていた。
視界の端に魔物の足が映った。少しの逡巡を置いてこちらへ向かって歩み寄ってくる。身体が動かなかった。動かそうとすると痛みが走った。苦痛で声を漏らしながらもヴィオラは両手を突いて上半身を持ち上げた。仕留め損ねたことを知って魔物が一気に駆けだしてくる。ヴィオラは必死で身体を起こし地面を蹴った。
硬くて柔らかな肉の塊を叩きつけたような音がして弾けた幹の破片が辺りに散らばり、寸前で攻撃をかわしたヴィオラはほとんど転ぶようにしてその場を離れると落ちていた剣を拾い上げた。
歌を使わなければヴィオラにここまで強力な魔物を倒すほどの力はない。だが悠長に歌っている時間もない。だからこそ魔物の気配には注意しておかなければならなかったのに。疲れで注意力が鈍っていたらしい。
それでも握りしめた剣を構え、肩で呼吸を繰り返しながら魔物を睨みつけて攻撃を仕掛けてくるのを待った。それでどうにかしようと本気で思ったわけじゃない。できることが他に思い浮かばなかった。けれどあきらめたり投げだす気持ちはかけらもなかった。
なぜあいつが無茶ばかりするのかわかったような気がした。
咆哮。空気の振動でびりびりとした衝撃が全身に走り魔物が突進した。ふらついた足ではあの魔物の固い皮膚に傷一つつけることはできない。
だが。
飛びかかり様に魔物が拳で殴りつけてきた。ヴィオラも前に踏みだして迎え撃ちながら、かろうじて拳を避けながら距離を詰めていく。どれだけ固い皮膚に覆われようと、急所を狙うことができれば。
「はあっ……!」
ふらつく足で力強く地面を叩きながらまっすぐに突きだした半透明の刃が魔物の目玉を捉えた。血を噴きだしながら深々と突き刺さっていく。途端に裏返った声で悲鳴を挙げた魔物が激痛にもがき、ヴィオラは歯を食いしばりながらさらに力をこめて剣を押しだした。
涙のように出血させながら、痛みに暴れていた魔物のもう片方の目がヴィオラを見下ろした。背筋がぞっとする。最後のあがきの予感。危険を感じて咄嗟に距離を取ろうとしたが、唐突に両耳からぱんと叩かれたような音がして視界が閉ざされていた。
「くっ……!」
足が地面から離れる。頭を両手で挟まれたまま身体を持ち上げられていた。そのまま強烈な力で握りしめられ、みしりと頭の奥で骨が嫌な音を立てた気がした。暗闇なのに視界がちかちかとする。痛み。もうどこが痛いのかわからなかった。頭が破裂する気がした。抵抗するだけの力も残されていない。
どん、と突き上げられるような衝撃が魔物の手のひらから伝わったのはそのときだった。
不意に頭部への圧迫がなくなり冷たさを帯びた森の空気を感じたかと思うと腰を強く地面に打ちつけた。魔物が動きを止めて尻もちをついたヴィオラを見下ろしていた。その胸から淡く輝く透明な白い刃が飛びだしていた。光の魔導術。刃が粒子となって弾けて消えていく。
魔物の後ろにいたカスミが地面に倒れたまま手のひらをこちらへ向けていた。張り詰めていた緊張が緩み忘れていた呼吸がヴィオラの口から漏れた。彼女がいなければ間違いなくあのまま殺されていた。
だが安堵する間もなく突然カスミは痛みを堪えるように微かに肩を強張らせて声を漏らしはじめ、ヴィオラは崩れ落ちる魔物の脇を抜けて慌てて彼女のもとまで走った。
「カスミ……!?」
「く、うぅっ……いた、いっ……」
「カスミ! しっかりしろ、カスミっ!!」
抱え起こしたヴィオラの腕の中で彼女はぎゅっと目を閉じたまま身を捩って苦痛の声を漏らした。身体の震えが伝わり、カスミは頭を抱えながら激痛に苦しんでいた。このまま死んでしまうのではないかという不安が一気に押し寄せてくる。
「どうして……誰かっ……」
はっとしたようにヴィオラは顔を上げて周りを見回した。森の奥。遠い場所からユーリたちの声が聞こえたような気がした。呼びかけようとしたヴィオラの腕に手が触れた。すがるように腕を押さえながら表情を歪めたカスミが必死な様子で見上げる。
「ヴィ、オラっ……」
「待ってろカスミ、いまユーリたち、をっ……」
安心させるようにカスミへ顔を向けたヴィオラは思わず息を飲んだ。服の下から伸びた痣がカスミの首まで広がり、じわじわと浸食するようにその範囲が拡大していた。
「ヴィオラ、お願い……」
彼女の手が首に伸びた。ぎゅっと力がこめられ息が詰まる。こちらを見上げるカスミの目に動揺するヴィオラの表情が映った。
「逃げ、てっ……」
小さくささやくような声でカスミが呟く。涙を浮かべたその瞳が真紅の光に満たされていった。