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水平線上のアルマティア  作者: 深波恭介
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純真が結ぶ想い

 アリューズが村へ戻ってきたのは太陽が西の空へ沈み村の外が真っ暗になった頃だった。彼女の話によればフージェからの応援が到着するのは明日の朝になるのを待たなければならないらしい。


 ユーリたちがこの村へカスミの調査に行くことは伝えていたがそれはあくまで症状の進行を観察するためであり、フージェを中継して連れていくことになる病院がある町へ前もって搬送の連絡をする役目しか担っていなかったからだ。


「以前の調査で報告された資料では魔物化するまでにはまだしばらくの猶予があったはずなんです」


 カスミが末期症状になっていたことは想定外なのだとアリューズは言った。発症してからユーリの記憶喪失やカスミの身体の麻痺といった特有の症状が現れるまでには個人によって差はあるが、その辺りの状態から魔物化するまでの早さはある程度決まっているからだ。


 フェアリクス病は症状が重くなっていくほどフェアリーを吸収したときに生じる頭痛は強くなっていくため、重症化すればあまりの痛みに魔導術の解放自体ができず症状の進行が緩やかになっていく傾向があった。


 にも関わらずカスミが既に末期症状を見せているのはつい最近まで彼女が魔導術を使い続けていたということだ。想像を絶する激痛に襲われてもなお。


「というわけで明日の朝に魔導騎士の方がフージェの部隊と合流してこちらへ駆けつけてくださるそうです。族長さんも快く迎えてくださったことですし、今日のところはお二人もゆっくりと身体を休められては」


「……テントでぎゅうぎゅう詰めになりながらな」


 あれから、ヴィオラとは一言も口を利いていない。


 さすがにあんなことを言ったあとであの家に泊めてもらうには気が引けたため、ユーリたちはアリューズが持ってきていたテントを村の端っこに張って一晩明かすことにしていた。そうしてなんとなく気まずい空気を抱えて顔を合わせないまま夜になり、食事の時間になっても彼女はカスミのそばから離れようとしなかった。


 ついでに言えばアイリスともどこかぎくしゃくとしてしまっていた。村はそろそろ寝静まろうとしていたがまだ九時過ぎ頃だというのに彼女は早々にテントの中へ引っこんでしまっている。


「お前も寝るのか?」


「疲れていますし、明日もやることが山積みです。それに、他にすることもないので」


 いままさにテントの中へ入ろうとしていたアリューズはこちらへ振り返ると丁寧に靴を揃え、ついでに片方が倒れていたアイリスのショートブーツもきちんと並べ直しながらユーリを無表情に見上げた。


「トランプならありますよ。ポーカーでもしますか。わたし、子どもだからと容赦はしない性格ですが」


「……いや、いい。そんな気分じゃないから」


「そうですか。ではお先に休ませていただきます。お疲れさまでした」


 それからぱさりと上着を脱いで寝袋にくるまる音を耳にしていたユーリは小さくため息をつきながら背後の焚き火に振り返った。明かりに照らされながらじっと炎を見つめていたナーガがゆるりと顔を上げる。


「この辺りは夜になると冷えますね。魔王様もそちらへおかけになってあたたまってください」


 小さな丸太に腰かけて木の枝で焚き火をつついて火遊びをしながらナーガが言う。ユーリはその向かいに腰を下ろそうとしたが、ここでじっと焚き火を眺めているような気分にもなれずもう一度ため息をついた。


「いや、いい。散歩行ってくるわ」


「夜の森は危険ですよ」


「少し気晴らしがしたいんだ」


「では、ナーガもご一緒します」


 ナーガはそう言って立ち上がると太い薪で燃えていた炎を小さくしてから桶に汲んであった水をかけて消火した。明かりがついているのは族長の家の他は数軒だけで、村の中は森から聞こえてくる虫の音以外に物音はしなかった。


 村の外周を覆う茨のカーテンを開けて外へ出ると空気の流れが夜の冷たさを運んできた。微かな肌寒さを感じるが我慢できないほどではなくユーリはローブの襟元を結んでいたナーガへと振り返った。


「ナーガ、杖貸してくれ」


「どうぞ」


 そう言って手元を動かしながらナーガがくるりと背を向け、そこへ固定具もなしにくっついていた杖を手に取った。その先端に取りつけられたフェアリー結晶へと魔力を流しこむと小さな音を立てながら結晶が淡く緑色の光を放ちはじめていく。


「どちらへ向かいますか」


「とりあえずまともな景色がある場所かな」


 杖を行き先へかざしながら歩きだす。右を見ても左を見ても暗闇が広がっているばかりで鬱蒼と茂った木々がどこまでも頭上を覆い尽くしていた。ほんの数メートルほどの周囲を照らす妖精光を頼りに気の向くまま、けれど村からはあまり離れてしまわないように注意しながら適当に森の中を彷徨っていく。


 そのあいだナーガはなにも言わずにただユーリの後ろをぴったりとついてきていた。あれからナーガはカスミのことについて一言も意見を口にしなかった。


 いまさらになってヴィオラに投げかけられた言葉がユーリの胸に突き刺さっていた。


 できることならユーリもカスミがこの村へいられるようにしてやりたかった。カスミがヴィオラの友人だというのなら、なおさら親身になってその方法を考えたかった。


 嫌われてしまっただろうか、とユーリは思った。


 魔物化することで急に敵意を剥きだしにしてくるだなんてとてもじゃないが信じられない話だったのだろう。魔物たちがフェアリー結晶によって狂暴化するのは疑いようのない事実だが、カスミが魔王種になったからといって自我を失うわけではないのだ。


 彼女の心は彼女のもとへ留まったまま、自らが人間と乖離した実感さえ感じることなく魔物の姿へと移り変わっていく。


 カスミにとってヴィオラやアンゼリカ、あの村に住む住人たちが敵に映るようになるというわけではなかった。心の在りようは変わらない。


 それでも彼女が魔物化してしまえばいままで通りに過ごすことはできなくなってしまうのだ。


 城にいた魔王たちは、厳密に言えばビュイスやティユルはどうして人間社会へ溶けこもうと決心したのだろう。タドコロによって魔力を奪われた彼らはかつて恐れられていた力を失ってはいるものの、魔物としての能力そのものは残っており危険な存在であることに変わりはない。


 フェアリー結晶がもたらす破壊衝動に支配され魔王として混沌を撒き散らしていた彼らを引き止めたものはいったいなんだったのだろう。


 そう都合よく答えが見つかるはずもなくユーリがうつむきながら小さくため息をつくと後ろからナーガがぼそっと呟いた。


「お元気がないようですね」


「……まあな」


「魔王様のご判断は間違いではないとナーガは思います」


 間違いではない。けれど正しいわけでもない。カスミのささやかな願いを奪おうとしているのは事実だ。


 そう考えていたところで真後ろにいるこいつもフェアリー結晶を持つ魔物だったことを思いだしてユーリは横顔を振り向けた。


「ナーガ、つかぬことを訊きたいんだけどさ」


「スリーサイズでしたら上から九十──」


「どうしてこのタイミングでお前の身体に興味持つと思ったんだ。しかも平然と盛ってんじゃねえよ」


「魔王様が思い詰めているように見えたので少々の戯れでお心が軽くなればと考えた次第です」


「戯れなら仕方ないな」


「どうなさいました。改まらずともご遠慮なさらずなんでもおっしゃってください」


「……ちょっとした質問なんだけど、ナーガは普段過ごしてて不意になにかを壊したいとか思ったりすることはないか?」


「アイリスの顔面なら毎日」


「やめて」


「やめます」


「そうじゃなくて、もっと本能的な話だよ。ナーガだってフェアリー結晶を持ってるだろ?」


「ナーガのフェアリー結晶はおそらくそれほど上等なものではないかと」


「じゃあ、ナーガの仲間には?」


「そもそもナーガたちは自身の持つ力の危険性を充分に理解しているので日頃から感情を押し殺す癖がついているんです。特に目的もなくなにかを壊したり傷つけたりしたいと思ったことは一度もありません」


「そうか……」


「ですが……そんなふうに心を鍵で閉ざしてもなおナーガの魔王様を想う気持ちは抑えきれず、強いて言うならいまの距離感を壊したいです」


「壊すってそういう意味じゃないから」


「さりげなく愛の告白をかわす魔王様も素敵です」


「そんなに言うんだったら別にもっと馴れ馴れしくしてくれていいんだぜ? 敬語じゃなくていいし呼び捨てだって気にしないし。なんだったら物騒な呼び方じゃなくて名前で呼んでほしいくらいだ」


「主と従者という関係は気に入っているんです。もしくは持ち主と道具。最近は使い魔という響きが気になっています」


 使い魔ってなんだろうとユーリは思ったが出処は判明しているので深く追求しないことにした。


 そのまま歩いていると遠くから微かに水の音が聞こえはじめ、ユーリたちは森を流れる小川を見つけた。村のモイティベートたちが飲み水にしている場所だろう。それを伝って上流へ向かって歩いているとやがてぽっかりと開けた場所へとたどり着く。


 そこには大きな泉が広がっていた。ユーリはカスミの部屋に飾られていた一枚のイラストにも同じ景色が描かれていたことを思いだしていた。


 互いになにも口にすることなく泉のそばにあった石の上に並んで腰かけながら、ユーリはささやくような虫の音を耳にしながら水面に反射して揺らめく空の色をしばらくのあいだじっと見つめていた。


「あの女のことが心配ですか」


 小さなせせらぎを耳にしながら泉に映る月を見つめていたナーガがおもむろに口を開く。


「ナーガは興味ないか?」


「ナーガ的には魔王様の方が心配です」


 少し横顔を振り向けるとナーガは前を向いたままなにげない口調で続けた。


「魔王様はこの先も魔導術を使い続けるおつもりですか」


「使わなくてもよくなれば、使わないよ」


「それは答えになっていません」


「使わないままいるって選択はできないと思う。こうしている限りは」


「魔王様が本当の魔王様になってしまったら、ナーガはいままで通りおそばにいることはできるのでしょうか」


 ブルーグレーの髪がふわりと翻り、こちらをまっすぐに見返したナーガの瞳にユーリの表情が映った。少しのあいだなんの感情も見えない透明な瞳を受け止め、やがてゆるやかに吹いた風に連れ去られたように泉の方へ向き直った。


 わからなかった。


 人間が魔物化することで魔王種が生まれるという事実を知ってからフェアリクス病の進行を遅らせようと気を遣ってはいたが、仕方のない事情があったとはいえユーリも重症化の一途をたどってしまっている。


 どこかできっぱりと魔導術とは縁を切らないとこのままでは間違いなくそう遠くない未来にユーリも魔物化する確信があった。


「……大丈夫だとは、おっしゃってくださらないんですね」


 ナーガが微かに目を伏せて寂しげに呟く。ユーリは苦笑いを浮かべた。


「だからこそ、俺が無茶をしなくてもいいようにナーガがいてくれるんだろ?」


「でしたらナーガはちっとも役に立っていません。魔王様はいつも無茶ばかりなさっています」


「それでも頼りにしてる。ナーガがいないと困るよ」


「……魔王様がいなくなって困るのはナーガの方です」


 そう呟いて、彼女は足元に転がっていた石ころをこつんと蹴飛ばした。ちゃぷんと泉に音を立てて波紋が広がり、ナーガはいつになく思い詰めた表情で揺らめく水面をじっと見つめていた。


 もし自分が魔物化したとしても、これまで抱き続けてきた信念を裏切って仲間たちに危害を加えるだなんてあり得ない話だと思った。その想いはカスミも同じだろう。


 そして、あいつもきっと。


 ユーリは顔を上げると頭上に広がる星の海を見つめた。周りに町明かりがないおかげで夜空には数えきれないほどの星々が白く光を放ちながら深海のような空の色に浮かんでおり、光の屈折で微かに明滅を繰り返している光景はまるで星が鼓動をしているようにも見えた。


「やらなくちゃならないことがたくさんあるんだ」


 しばらくのあいだ空の景色を眺めていたユーリはそっと呼びかけながら彼女に目線を下げた。


「たとえば母さんのこととかさ。あの人がとんでもない魔物だってこと、ナーガなら気づいてるだろ?」


「……途方もない力を持った方だとは思っておりました」


「きっと、俺が死ねば母さんは本当にすべての生物を滅ぼそうとすると思う。だからその前になんとしてでも俺が倒さなくちゃならないんだ」


「魔王様は……それで構わないんですか」


 微かに眉尻を下げながら気遣うような顔でナーガが訊ねる。ユーリはうなずきながら微かに苦笑いを浮かべた。


「そうしなくちゃ、みんな困るだろ」


 ここまで育ててもらった恩を感じていてもあの魔物が凶悪な存在である事実は揺らがない。彼女をこの地上に残したまま先に死ぬわけにはいかなかった。それがどれだけ難しいことだとしても傍観者でいることはできない。


「俺にできること、しなくちゃならないことはたくさんあると思う。別に誰かに頼まれたわけじゃないし、全部独りよがりのお節介なのかもしれないけど。でも、こうして転生者として力を与えられたんなら、それを誰かのために使わなくちゃならないって……なんとなくそんな気がするんだ。だから……いまはまだ魔導術を手放すわけにはいかないんだ」


「……そのために魔王様が魔物になってしまうなんて、ナーガは嫌です」


 頑なに拒みながらナーガは目を伏せた。ユーリは口元に笑みを浮かべたまま、小さくため息をついた。


「なら、そのときはナーガが引き止めてくれ」


 そうして彼女の頭にそっと手のひらを乗せる。顔を上げたナーガは寝起きのようなきょとんとした表情を浮かべていた。


「もしもナーガが嫌だって言うんなら俺はそれを押しきってまでやろうと思わないから。お前がどうしてもって言うんなら俺はこの力をいつでも捨てる。まあ、母さんのことに関しては止めないとかなりまずいんだけどさ」


「それはナーガが決めていいことではありません」


「じゃあ他に誰が決めるんだ?」


 まるで当然のことのようにユーリが訊き返すとナーガは困ったような顔をしていた。


「……魔王様は、それでよいのですか。そんな大事なことをナーガなんかに任せても」


「だからこそナーガに託してるんだよ。他の誰でもない、ナーガだからだ」


「もしかすると救えたはずの人間どもを見捨てる結果になるかもしれません」


「いいよ別に。もう充分役目を果たしたと言ってもいいくらい頑張っただろ。ナーガの反対を無視してまでわざわざ救いたいとまでは思ってないよ」


 そう言いながらぽんと頭を軽く叩いた。ナーガは呆気に取られた様子でじっとユーリを見つめていたが、やがて困り顔に小さな笑みを重ねると目を伏せながら微かな声で呟いた。


「ずるいです、魔王様は。そんなことをおっしゃられてもナーガに邪魔ができるわけ、ないではありませんか」


「邪魔なんかじゃないよ。ナーガの気持ちの方が大事ってだけだ」


「……わかりました」


 うつむいたまま、ゆっくりとうなずく。


「そのときは、ナーガもきちんと魔王様にお伝えします。ですから……どうか魔王様もナーガにそのような決断をさせないでください」


「……ああ、わかった」


 顔を上げたナーガが瞳を覗きこむようにじっとユーリを見つめた。そのまま、彼女はらしくない仕草で少女のようにそっと微笑んだ。

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