ひたむきな純真で
宿で部屋を取ったあとに荷物を置いて適当なレストランで食事を済ませた二人は町を歩いていた。空は完全に夜の帳が落ち、通りに等間隔で並んだ妖精灯の放つ光で町が埋まっている。けれど通りを行き交う人の数は夕暮れ時よりも多くなっており、もうそろそろ八時くらいになろうかという時間になっても賑やかな声がそこかしこを歩き回っていた。
この世界で主に使用されている資源の一つが妖精灯などに使用されるフェアリー結晶だ。長い時間をかけて魔物の体内に蓄積したフェアリーは結晶化することでそれ自体がフェアリーを吸収し貯蔵をするという性質を持ち、密度によって左右されるものの魔力を与えることで反応を起こし数時間ほど発光するようになる。
この辺りの原理については魔導術を使う際に励起されたフェアリーが光を放つのと基本的には同じでそのまま使うと緑色の光になるのだが、なぜか塩水に浸けることで白い光になることが知られていた。使い道は他にもあるが一般的に使用されるのは概ね光源としてであり、フェアリー結晶はこの世界の人々にとってなくてはならない物資だった。
そのため日暮れになると町には魔導士たちが歩き回り、各家庭では住民たちが自ら魔力を使って明かりを灯し、町の外では日夜魔物たちがフェアリー結晶を奪われ続けていた。
「ありがとうございます魔王様、こんな素敵な服を買っていただいて」
少し後ろを歩いていたナーガがセリフだけは嬉しそうに平板な口調で話しかけてくる。
「よかったな、いい服だろ」
「はい、とても」
振り返ってみるとやっぱり真顔だった。表情はともかく印象はずいぶんと可憐で年頃の少女らしい感じになっており、すれ違う通行人たちも時折ナーガに目を向けていた。たかがリボン二つと服だけで四万ディール近く吹き飛んでしまったのでせめてもう少し笑顔を浮かべてくれてもいいのにと思ったが、歩きながら着心地を確かめるように自分の身体を見下ろしていたのでおそらく機嫌はいいのだろう。
「ナーガ、少し散歩しないか?」
「散歩ですか」
「ああ、港の方まで軽く」
「……」
ナーガはぼんやり顔を浮かべたままきょとんとしたようにこっちを見ていた。そうしてなにかしら納得したように腕を組むとニヒルな笑みを浮かべながら気取った仕草で額の辺りに手をやった。
「なるほど、これがデートというやつですね。服を着替えただけでお誘いが来るとさすがのナーガも少し複雑な思いがありますが、魔王様を魅了できたのなら野となれ山となれです」
「誰がお前なんかデートに誘うか」
「違うんですか」
「話があるんだよ」
「……お話ですか」
「……まあ、とりあえず行こう。ここは少しうるさいから」
先に歩きだすとナーガはなにも言わず後ろをついてきた。中央広場を抜けて港の方まで向かうにつれて人の数は少なくなっていき、徐々に人混みの騒々しさも薄れ町明かりが遠ざかっていく。港まで来ると物音はほとんどなくなり、停泊した船が大きな黒い影となって海の上に浮かんでいた。
そのまま岸壁沿いに歩いていこうかと思ったが、そうして散歩を続けているといつまでも言いだせない気がして足を止めた。
「あまり星が見えませんね」
「町明かりで遮られてるせいだよ」
空を見上げながら答える。いつの間にか薄雲も現れはじめており、空気には微かな湿り気が感じられた。
「ところで魔王様、お話というのはなんですか」
「……この町は気に入ったか?」
「はあ……まだ来たばかりなのでなんとも言えませんが、取り立てて嫌だと思うところはありません」
「そうか……」
「それがなにか」
「俺はこれから首都の方へ行こうと思ってる。仕事を探そうと思ってるんだ」
そうして視線を下げ、ナーガに振り返る。
「一人で行く。だから……お前はこの町に残れ」
ナーガは少しのあいだ、寝ぼけたような顔でこちらを見つめていた。驚くことも戸惑うこともなく顔色一つ変えずに。そんなふうにたいした反応を返さずにいたまま、思いついたように口を開く。
「ナーガも一緒に行きます」
「だめだ」
「なぜですか」
「邪魔だからだ。いつまでも俺につきまとうのはやめろ」
「ナーガなら魔王様をお守りできますよ」
「守らなくていい」
「失ったお力を取り戻すつもりでは」
「俺はそんなことを言った覚えはない」
「……ナーガでは魔王様のお力になれませんか」
「頼りにしてなかったよ、最初から」
身勝手なことを言っているのだろう、とユーリは思った。二度も助けてもらっておいて一方的に突き放しているのだから。
だけど、これでいい。転生者のそばにいたっていいことなんて一つもない。世界を支配する魔王を倒し、人々に平和をもたらす。そんな夢物語みたいな過酷にまみれた日々は転生者たちに任せて光の当たる世界で暮らしていればいいんだ。
「……魔王様はいつも貧乏くじを引いてばかりなんですね」
ゆるやかな海風が二人のあいだを通り過ぎていく。さらわれた髪を押さえながら不意にナーガが小さく呟いた。
「はじめてお会いしたときからずっとです。魔王様はいつも周りのことばかりでちっともご自分のことを救おうとしてくれません」
「俺の話、聞いてなかったみたいだな」
「魔王様はあまりうそが似合うお方ではありませんよ」
心の中を見透かしたように。普段はすっとぼけたことしか言わないくせにどうしてこんなときだけ鋭いんだろうな。
「……自分で納得して選んだことなんだ。お前はなにも気にしなくていい」
「どうしてナーガを頼ってくださらないんですか。魔王様のためならナーガはいつだって──」
「だからだよ」
たぶん、今日のことだって。俺が命じればきっとナーガは素直に命を捨てに行っていた。
「俺のために、なんて思わなくていい。もう少し自分を大事にしてくれ。せっかく生まれてきたのにそんなふうに命を粗末にするな」
「お言葉ですが、命を粗末にしているのは魔王様の方です」
「俺はいいんだよ、そういうためにもらった命なんだから。でもお前はそうじゃない。わざわざ首を突っこまなくていいんだ」
「ナーガは魔王様が不幸街道を自ら突っ走っていくのを見ていられないだけです」
こっちの都合もお構いなしに、ただ純粋に。たった一度命を救っただけでどうしてここまで投げうたれなくちゃならないんだ。こっちはその記憶さえも思いだせないのに。
「……魔導術一つ扱えないお前が俺の役に立てると本気で思ってるのか? 迷惑なんだよ、お前の恩返しとやらにつきあわされるのは」
傷つけるような言葉しか選べなかった。そんな言葉をぶつけているうちにナーガは顔を伏せてしまう。心の中に小さなとげが突き刺さるような痛みが走っていった。
「……迷惑ですか、ナーガがいると」
「ああ」
「……わかりました」
やがて、ブルーグレーの髪の下で逡巡するようにこちらの足元を見つめていたナーガが顔を上げる。
「魔王様がそうおっしゃるなら、ナーガもそれに従います」
そうして文句一つ言うこともなく受け入れてくれた。いや、受け入れてくれたわけじゃない。俺がそうさせただけだ。
「……せめて一つだけナーガのお願いを聞いていただけませんか」
「なんだ?」
「もしもこの先、魔王様の身に困ったことが起きたときは。そのときはナーガを頼ってください。お手紙ください、すぐに駆けつけます」
きっと不安しか感じていないのだろう。それでもユーリの意思を尊重して送りだそうとしてくれている。これだけひどい言葉を並べ立てたあとなのに。
「……わかった。そのときはかならず呼ぶ」
それくらいなら喜んで聞き入れよう。たとえ永久に果たされることのない約束だったとしても、それで少しでも心の霞みを拭い去れるのなら。
「ここまで一緒に来てくれてありがとな、ナーガ」
「お安い御用ですよ」
いつもと変わらない口調で、どこにも感情の向かない表情を張りつけながら。
「……短いあいだでしたが、魔王様とご一緒できてナーガはとても幸せでした」
けれどそのときだけはなぜかそれが悲しげな顔に映って、ユーリはうまく言葉を返すことができなかった。