星屑の調べ
意識と五感が定められた場所からお互いに離れていくような剥離を感じてよろめきかけた身体を杖で支える。うまく力が入らない。まるで自分以外の誰かとなって身体を糸で操っているように感覚がおぼつかなかった。
白百合の庭園が生みだした悠久の魔力。それは同時にユーリへ痛みと喪失をもたらしていた。
「っ……」
いつ気を失ってもおかしくないほどの痛み。視界ははっきりしているのに瞳が景色と捉えることができなかった。
「ユーリ……そうか、お前……ずっと……」
言葉を失ったまま空気に溶けていくアークエンジェルの残光を見つめていたルシファーが微かにはっとしたように呟いた。そこに失われかけていた戦意が取り戻されようとしている気配を感じ、ユーリは歯を食いしばりながら前を見た。
空白が絶え間なく襲いかかってくる。そのたびに手放してしまいそうになる記憶を手繰り寄せた。
けれど、どうしてそこまで必死になって忘れないでいようとしているのだろう。
咲き乱れた花が風に消えていき辺りが再び闇へ落ちていく。これ以上アスフォデルスを解放し続けることができなかった。
「……ここまで追い詰められるなんて思わなかったよ。だけどユーリ、僕の勝ちだ」
ルシファーの指輪から無数の魔力が飛びだした。それらが一つずつ魔物の姿へと変わっていき数えきれないほどの大軍となってユーリの前に現れる。
尋常じゃない数の魔物が壁のように視界を埋め尽くしひしめきあいながら増え続けていく。
まだこんなに隠し持っていたのかよ……。
いったいあとどれくらいの魔力が奴にあるのだろう。果てのない闇を彷徨うような絶望感が不意に意識の片隅で顔を覗かせ、そのまま押し潰されそうになる心をなんとか振るい立たせていく。
立ち向かうための体力なんてずっと前に尽きている。それでも倒れているわけにはいかない。
「ユーリくんっ!!」
手のひらをかざし紋章陣を描こうとしていたユーリのもとへ町の方から呼びかける声が届いた。聞こえるはずのない声に驚いて振り返ると外壁の上にアイリスと、そして彼女に支えられているヴィオラの二人が立っていた。
胸の奥にあたたかなものが流れこんでくる。
ヴィオラ、無事だったのか……。
心の声が届いたようにヴィオラが小さくうなずき、そして微笑を浮かべた。
「待たせたな、ユーリ。頑張って歌うから……ちゃんと聞いていてくれ」
不安そうにしながらアイリスが彼女から離れていく。ヴィオラは目を閉じると胸に手を当てながらもう一方の手を魔物の大軍へと向けた。
「……祈りを言葉に、言葉を歌に」
「あの二人は……くそ、ユーリっ……どうしてお前ばかり……!」
ほんの一瞬呆気に取られたように二人を見ていたルシファーが怒りを露わにした。指輪からさらに大量の魔力が現れ、粘液の塊が魔物の軍勢の後方から巨大な大砲となって二人に狙いを定めていく。
「集めた想いは真実を、奏でる歌声は静寂を呼び覚ます」
ヴィオラに歌を止める気配がない。ユーリは咄嗟に手をかざしトリテレイアの紋章陣を描いた。
「ぐぅっ……!!」
だが脳裏に突き刺さった激しい痛みに意識が霞み描いた紋章陣が途絶えてしまう。
このままでは二人がやられる。
そのときヴィオラの前へとアイリスがかばうように飛びだしていた。いまにも泣きだしてしまいそうな必死な形相でエーデルワイスを掴み、鞘に手を添えながら目の前に掲げる。
あの魔物にエーデルワイスの力は効かない。大砲から一斉に砲弾が発射され空気を裂いて闇夜を駆け抜ける。朦朧とする意識の中で魔力の波動が拡散していき思わずユーリは息を飲んだ。
違う、これは。
アイリスがフェアリーを励起させていた。その周囲から淡く光る粒子が舞い上がり掲げたエーデルワイスが金色の光で覆われていく。
お前、いつの間に……。
「アークエフ……!!」
アイリスが叫びエーデルワイスを纏う光が弾けた瞬間、巨大な紋章陣が輝きを伴って浮かび上がった。さらにそこから幾重にも重なった紋章陣が展開され、解放された魔導術がアンスリムをすべて覆い隠すほどの巨大な障壁となって広がり直撃の寸前ですべての砲弾を消滅させていく。
アークエフの紋章陣であることに間違いはない。だがあの魔導術は防御魔導でも低位に当たるものであり、町を覆うほどの防御力なんて持ち合わせていない。そこから展開した紋章陣もユーリですら見覚えがないものだった。そもそも積層型の紋章陣など聞いたことがなかった。
「なんだと……!?」
その光景に目を見開いたルシファーが唖然としたように声を漏らす。
「茫漠の闇に覆われようとこの心に輝きは消えず、冷厳なる光の結晶は慟哭を揺らす祝福の音色を解き放つ……!」
「くっ……行けぇ!!」
焦燥に駆られたまま苦し紛れにユーリに向かって重装兵を突進させた。
「光を揺蕩う精霊よ……! ヴィオラティア・ベル・リュミエルの名の下に、大いなる星々の瞬きとなってこの地へ降り注げ……!」
大地を駆ける重装兵が、身体を崩壊させながらも砲弾を放ち続ける大砲が不意に光に照らされた。
「エトワール・スターダスト!!」
視界が白に染まっていく。頭上に輝く星空の光が大きくなり、そう思ったときにはもう数えきれないほど大量の光弾が流星雨のように闇を切り裂いていた。
眩しさで目を開けていることができず、大地震が起きたかのような衝撃音と大地の揺れに包まれなにが起きているのか把握できなかった。微かに届く声が誰の発したものなのかもわからず、あまりの威力に巻きこまれてしまうのではないかと思った。
やがてまぶたの向こうで光が徐々に消えていき辺りからなんの物音もしなくなり、ユーリはそっと目を開けた。
あれだけ大量にいた魔物たちは跡形もなく消滅しており、地面は広範囲に渡って大きく抉れ平原の景色は見る影もなくなっていた。