女神の光
ここでいくら強力な魔導術を解放させてもあの障壁がある限りルシファーを倒すことはできない。
魔導士が持つ力のすべてを奪う能力の強大さに改めて辟易する。
「くっ……」
強い痛みが脳裏を走り、そのたびに気が遠くなるような目眩がした。
アイリスからもらった魔力もとうとう底が見えはじめ、霞みそうな意識を繋ぎ止めるにも精神的な疲弊が大きくなり過ぎていた。
「くく、はははっ……あはははっ!! なあユーリ、僕に教えてくれるんじゃなかったのか!? 実力も戦略も、お前が僕に敵う道理なんてなかったんだよ!!」
倒す術などない。フェアリーを消失させて無力化をしようにも身体の方が先に限界を迎える。
「っ……もう勝った気でいるなんて、見た目通り間抜けなんだな……」
目を伏せたまま呟いたユーリの言葉を聞いたルシファーは笑みを消して表情を引きつらせた。燃えるような怒りがその瞳に宿りいまにも殴りかかってきそうな目つきで睨みつける。
「……言ったはずだよな、僕に無礼な口を利くとどうなるか」
最初からそこに絶望しかないことはわかっていた。
けれど。
痛む頭を押さえたまま立ち上がり、たったそれだけの動作でやけに息が上がってしまいユーリは肩で呼吸を繰り返しながら相手を見返した。
「安い挑発に乗せられて頭に血が上るから勘弁してくれ、だったか……?」
抗うための命はまだここにある。
「お前はっ……」
表情を歪め声を荒げかけたルシファーが咄嗟に言葉を切って小さくため息をついた。
ユーリの姿を見ればそれがただの虚勢にしか過ぎないことは誰の目にもあきらかだったからだ。高位魔導術の連続解放で呼びだした魔物は一瞬の内に闇へ消滅させられたが、その代わりに体力を奪い着実にユーリを追い詰めていた。
「いいさ、そこまで言うならやって見せろよ。でもその舐めた態度がどこまで持つかな? あいにくだけどお前が僕の戦略に踊らされているうちに呼びだす準備は整ったんだよ」
ゆっくりと指輪をこちらへ向けたルシファーがにやりと口元に笑みを浮かべる。
「見せてあげるよ、僕の最強にして完全なる力の結晶を」
それと同時に指輪から黒く淀んだ魔力の塊が飛びだし吐き気を催してしまうほどの魔力の波動が身体を通り抜けていった。
「現れろ、アークエンジェル!」
ルシファーの叫びに応えるように突如として放たれた光が平原の彼方まで照らし尽くし、眩しさに目を細めたユーリの前で魔力の塊が輪郭を描きだしていく。
いままでとは比べものにならない。頭が理解するよりも先に身体が本能的な危機を感じ取ってざわりと寒気が全身を駆け巡る。
収束していく光、その中に翼を思わせる鎧と一体になったドレスを身に纏った女がいた。
スカートの裾から伸びる脚はなく相手は宙に浮かんだまま両手を広げて彫像のように虚ろな表情でユーリを見下ろしている。
そこに秘められた膨大な魔力が絶え間なくフェアリーを励起させて神々しささえ感じられるまばゆい光で身体を覆い、そこから発せられる音がまるでオペラの歌声のように鳴り響き続けていた。
それはもはや魔物ではなく女神と呼ぶに相応しい姿だった。
「ふふ……くふ、どうだいユーリ。僕は神でさえも従わせられるんだ」
「……ちょうどよかった。前から神とか天使だとか……そういう連中をぶっ飛ばしてやりたいと、思ってたんだ……」
「きみの気の強さには感服するよ」
やれやれ、というふうに呆れた様子でルシファーが首を振る。
全身に重たくのしかかる疲労と激しい痛みを堪えてユーリは杖を持ち上げた。
「行け、アークエンジェル。ユーリを殺せ」
腰に手を当てたルシファーが指をぱちんと弾いた瞬間、アークエンジェルはすべてを受け入れるかのように広げていた両手を一つに重ねた。
そこから光が伸び輝きを放つ剣が現れ、そう思ったときには歌声を引き連れてユーリの眼前に一瞬で肉薄していた。
あまりの速さで光が残像を残し分身したようにも映り、咄嗟に身体強化を行ない紋章陣を描いて魔力を放出する。解放されたスティーリアが杖を凍りつかせ喉元を狙って振り払われた剣に向かって刃ごと叩き斬る勢いで正面から振り下ろした。
「ぐぅっ……!」
だが斬り裂くどころか受け止めることもできず激しい衝撃が杖から腕へと伝わり足が地面から離れ身体ごと弾き飛ばされてしまう。
その一撃だけでスティーリアの刃が砕け、滑っていきながらもユーリは地面に手を突いてかろうじて踏みとどまった。
身体強化を使ってこれかよっ……。
手のひらが痺れあまりの威力に絶句しながらもすぐさま体勢を立て直してブラストを放つ。追撃を仕掛けてきていたアークエンジェルの腹部を風の槍が撃ち貫き光の粒子を飛び散らせたものの、風穴は一瞬のうちに塞がり何事もなかったかのようにユーリの顔面へ光の剣を突きだしていた。
慌てて横へ飛んで攻撃をかわし側面へ回りこみながら、今度はさっきよりも圧力をかけた魔力でスティーリアを解放させて腕を斬りつける。しかし完全に両断されたかに見えた傷口は瞬く間に修復され刃が通った瞬間には既に元通りになっていた。
そのとき脳裏に留まり続けていた激痛がさらに強烈な痛みを発し、振り返り様の反撃にほんの一瞬だけ反応が遅れて避け損なったユーリの肩口を刃が水平に斬り裂いた。
「ちぃっ……!!」
高熱が撫でたような寒気が全身を走り抜け血飛沫が舞い、その雫さえも止まって見えるほどの集中力の中で強く踏みこみ氷の刃を一閃させる。
捉えた感触は水を裂いたように軽く、粒子を飛び散らせるだけでアークエンジェルの動きにはまるで乱れが起きなかった。そのまま放たれた斬撃に体重を乗せて全力で迎え撃ち弾き返していく。
剣以外の部分に実体がない。身体強化を使い続けているせいで両腕の筋肉が悲鳴を挙げていた。
だが相手も無傷でいるわけではない。確信はないがおそらくそのはずだと結論づけるしかなかった。ユーリには一刻も早くこの魔物を倒さなければならない理由があったからだ。魔力の触覚でこの速さに追従できているいまのうちに。
肩の傷を気遣う余裕もなく先に動いたユーリがスティーリアの刃で斬りかかりアークエンジェルの胴体を薙ぎ払う。そのまま刃を翻し頭上へ振り上げ互いの剣が交わり衝撃が視界を揺るがしていく。
足が地面に沈みまるで巨大な岩がのしかかっているように剣が重く、斬り結んだ刃が擦れて小さく亀裂が走っていく。
どれだけ硬度を上げてもスティーリア自体が力不足だった。このままでは押し潰される。
「でぇいっ!!」
強く地面を踏みつけて相手の剣を弾き返し、その衝撃で刃を砕かれながらもユーリは間隙を突いて杖を向け紋章陣を描いた。解放されたバーストがアークエンジェルを爆発で飲みこみ光の粒子と共に悲鳴のような歌声が響き渡る。
けれどそれだけでは致命傷になり得ず煙の中から残像を伴って飛びだしてきたアークエンジェルが剣を薙ぎ払い、ユーリは体勢を低くしてかわし再びスティーリアを解放させて振り上げた。
剣と剣がぶつかり硬い音が鳴り、一瞬早く動いたアークエンジェルの斬撃を横へ飛んでかわす。空を切った刃が地面を大きく抉り、がら空きになった胴体へ振るった斬撃をアークエンジェルが受け止める。
追撃をする前に相手が剣を振り払い弾き返され体勢を立て直す前に反撃されていた。慌てて上体を反らせて攻撃を避け一旦距離を取って杖を握り直す。
「こいつっ……」
動きが少しずつ速くなっている。
様子を窺うように相手も剣を構え直し、そのわずかな合間に呼吸を整えていると不意にアークエンジェルが剣を下ろして片手をこちらに向けた。
形のない直感が脳裏をよぎり咄嗟に横へ飛んだ瞬間、アークエンジェルの手のひらから光の矢が発射されユーリがいた場所で魔力が爆散した。
そのまま二発、三発と矢が飛来しアークエンジェルを旋回するように駆けだしたユーリの身体を掠めていく。背後で捲れ上がった土草が舞い上がり次弾が来たタイミングで方向を転換して一気に懐に飛びこんだ。
加速した勢いと体重を乗せて叩きこんだ刃を容易く受け止められてしまい、そう思ったときには目の前にいたアークエンジェルの姿が残像に変わっていた。目で追いかけるよりも先に魔力が気配を捉え、背後へ振り返りながら握りしめた杖に体重を乗せる。
激しい衝撃音が打ち鳴らされ受け止めた刃が砕け、いままでよりもさらに重い一撃で身体が後ろへよろめき、それでもなお殺しきれなかった斬撃が首元を襲い後ろへ飛んでかわす。
「っ……!」
その頭上で剣を振り上げたアークエンジェルが迫っていた。地面から足が離れとても受け止められる体勢ではなく、けれど他にどうすることもできずかろうじて再生させたスティーリアの刃に手を添えて防御を固めた。
「がはっ……!」
全身の骨が軋んだのかと錯覚するほどの衝撃が刃を支える両腕に走り、背中から地面に叩きつけられ押しだされるように声が吐きだされていく。後頭部を打ちつけて視界が白と黒に明滅し、感覚的に手で強く地面を叩いて身体を後ろへ一回転させながら立ち上がった。
視界が安定するよりも先に光が足元から胴体に迫りさらに後ろへ飛びのいたユーリの眼前を切っ先が撫でる。距離を取ろうにもアークエンジェルの方が速く、幾重にも重なる残像をその場に残しながら空白を一瞬で埋めた。
押しきられる。このままじゃまずい。
加速した勢いのまま薙ぎ払ってきた光の剣をこちらも身体ごと飛びこんで真正面から受け止め、交錯した刃の向こうでアークエンジェルが無表情にユーリを見下ろしてくる。
少しずつアークエンジェルの動きについていけなくなっている。それは決して相手の動きが速くなっているからではなく、ユーリの反応速度が鈍っているわけでもなかった。
受け止めた刃が徐々にこちらへ傾き、振り抜かれた剣を抑えることができず押し返された。両腕が跳ね上げられ地面を滑りながらも反動を利用して飛びこみ、これまで以上に硬度を上げているにも関わらず互いの刃が交わった衝撃だけで刃に亀裂が走り、相手の足元に転がって側面に回りこみながら立ち上がり様に一撃を放った。
残像がそれを受け止めたときには足元から迫る反撃の気配を身体が感じ取っており防御もままならない状態で構えた刃から激しい衝撃が全身を駆け抜ける。その威力を利用して弾かれながらも距離を取り、けれど急速に遠ざかったアークエンジェルが即座に片手をこちらに向けて光の矢を放っていた。
飛来した矢が着地する直前でユーリに迫り、咄嗟に魔力を放出させてフェアリーを励起させたのは勘としか言いようがなかった。
相手に当てる余裕はなく自らの足元にバーストを解放させ爆発が起こり、殻になったフェアリーによって矢を形成する魔力が吸収され眼前で消失していく。
煙の中から残像が姿を現し頭上から振り下ろしてきた一撃を弾いて真横に受け流し、間髪入れずに薙ぎ払ってきた斬撃を飛んでかわした。しかしユーリが斬りかかるよりも早く相手が追撃してきており、受け止める形で真下から斬撃を振るわれそのまま上空に吹き飛ばされてしまう。
アークエンジェルが頭上に手を掲げ矢を放とうとしたが、それと同時にユーリもリフレクトエアを解放させて空を蹴っていた。
「はぁっ!!」
天地が逆さまになり翼となった風のヴェールがユーリを急降下させ、身体ごと回転させながら放った渾身の一撃がアークエンジェルを光の剣もろとも両断していた。