空の上
いつからそれが始まったのか優斗は覚えていない。朧だが、十年前の中学一年のころはまだ正常だったであろう。しかし、もしかしたら自分が生まれて来る前からそれが始まっているのだとしたら、今目の前にいる人物は本人であって本人ではないのではないか、そう思った優斗は少々の寂寥と多大な嫌疑を感じ始めていた。
優斗は眼前に一人の老婆を見下ろしている。八畳ほどの部屋にいるのはこの老婆と優斗の二人だけだが、二人が目を合わせることはない。正確に言えば、老婆の方が優斗を見ていないのである。
「……おばあちゃん」
ふと口にした言葉は優斗自身が驚くほど小さく弱々しかったが、その言葉に反応したのかベッドに横たわっている老婆は一瞬優斗に目を寄越した。そのあとすぐに明後日に目を戻したが、いかんせん四半時も目を合わさなかったこの老婆に微々たる印象を与えたかもしれないという出来事は、優斗にとって些か喜ばしいことであった。
老婆が暮らしているこの部屋は「飯田プラザ」という老人ホームの一階にある角部屋である。北側に窓があるために澄んだ朝日も哀愁を帯びた西陽も入ってこないが、この部屋は小さな庭園を見る絶好の位置だ、という理由で決まったらしい。
「ねえおばあちゃん、花きれいだね。いっぱい咲いてるよ」
庭園に咲いている色鮮やかな花群を見ながら、少し大きめの声で優斗は言った。
優斗は花のことはよく知らない。知っているのはバラやチューリップなどの有名な花のみであり、休日に自宅にある鉢植えに水をやるといった殊勝な性格でもないために、先のような抽象的な言い方しかできない。
返事を期待していたわけではなかったが、反応が気になった優斗は老婆の方に向き直った。案の定というべきか、老婆は部屋の天井やコールボタンが垂れている壁を無意味に見ていた。いつだか優斗は母親から聞かされたが、声自体聞こえないのではなく、その他の雑音が比重を多く占めるようになる為に声の認識ができなくなるそうだ。
骨と皮だけしかないような腕でコールボタンをいじっている老婆を、もはや憐憫の目で見ている優斗は、「入りまーす」というドアの向こうからの声で我に返った。
「あ、優斗君いらっしゃい。いつも来てもらってありがとうねえ」
「いえ、今夏休みだし、バイトが無い時は暇を持て余すだけなんで」
それにしても偉いわよ、と言ったその女性は飯田プラザに勤めているケアマネージャーで、見た目は四十半ばぐらいだろう。胸に付いている名札には「坂井節子 さかいせつこ」と大きく書かれてある。ホームの住人からは、せっちゃん、と呼ばれていた。
「これからアレですよね。外でタバコ吸ってきます」
「ごめんね、一応女性だから。気を遣わせちゃっていつも悪いわね」
一礼をして廊下に出た優斗は、「はーいウメさん、オムツ換えましょうね」という声が聞こえ、早歩きで外に向かった。
優斗が外に出てタバコに火を点けると、肺は心地良い刺激で満たされた。ふぅ、と息を吐くと、肺、喉を通ってきた白い毒ガスが天高く昇り、辺りの空気に混ざって消えた。
今は九月中旬である。高校は九月で二学期を迎えるが、大学生となると九月の下旬まで夏休みが続くのが専ららしい。一般的に羨むべきことだが、優斗自身は夏休みが嫌いであった。いや、今年から、というべきか。今から一ヶ月前に優斗の母方の祖母であるウメが倒れたせいで家族崩壊が起きかけたからである。
八月三日、茹だるような灼熱の日、同居しているウメが急に寝込んでしまった。齢九十五のウメは普段から年甲斐もなく何かしら口にしているような人だった。しかし、食欲旺盛などではなくただ単に食に卑しいだけだったのかもしれない。そんなウメが何も食べなくなり寝たきりになってしまったのである。
ウメが寝込んでから二週間が経ったある日、優斗は喧々囂々とした雰囲気の中にいた。
「だから早くにホームに入れときゃよかったんだ」
「そんなこと言っても仕方がないじゃない。あなたは会社に行ってればいいけれど、私はずっとお母さんと一緒なのよ。苦労してるのが自分だけだと思ったら間違いよ」
「またそれだ。お前の母親だから気を遣ってるんじゃないか。これなら病気で入院してもらった方が楽だよ」
赤の他人より身内の喧嘩の方が怖くなるのは何故だろう。しかも夫婦喧嘩は激しくなると、ともすれば自分の将来まで変わってきてしまいそうで恐ろしくなってくる。
そのとき二人の声が一層の激しさを増した。
「お前のことが心配だから言ってやってるんだぞ。それに痴呆もかなり進んでるじゃないか。毎晩起こされるのもお前だけじゃないんだ。俺がリストラされてもいいのか」
「母親だから少しでも自分の手で介護したいっていうのが情ってものでしょう。あなたのご両親は早くに亡くなってしまったけど、人様に任せるなんて嫌じゃない」
優斗の家族は今まで深刻な問題があまりなかった。経済面でも裕福とまではいかないまでも、俗に「中の中」と言われるぐらいだろう、と優斗自身は思っていたし、母親の京子はかれこれ十年近く専業主婦として生きている。父親の祐介は同期の中では出世頭であるらしく、中規模会社ながら役員職に位置する。優斗本人も大学にそつなく入学することができ、自他共にこれからを期待していた。今は三年なので就職活動をしようかという時期が現在であった。
自室で本を読んでいた優斗はそれを閉じ、祖母のウメが寝ている部屋に歩き出した。全ての元凶ともいうべき老婆は静かに寝ている。
優斗はそのとき初めて祖母を長い時間見下ろした。静寂を切り裂くのは夫婦の口論だけであとは何もない。ウメの寝息は遠くでぶつかっている二人の罵倒によってかき消されていた。
どれくらい時間が経ったのか優斗には分からなかったが、いつの間にか口論は母親である京子の泣き声に変わっていた。こんなときは息子の居場所は大抵存在しない。せいぜい自室のベッドの中だけだろう。
優斗が京子の泣き声を聞いた瞬間、優斗の中に眠っていた赤い目をした生物がその目を薄く開かせた。
「おい、起きろよばばあ。シカトこくんじゃねえよ」
優斗は自分の力ではもう獣の明けを阻止することができずに、むしろ助長せんとばかりに口から禁忌の言葉を発し始めた。その後は惰性に全てを委ねるしかなかった。
「てめえのせいだぞ。てめえが必死に足掻いているからこっちまで大変になるんだよ。分かるか。お母さんは寝る間を文字通りあんたの為に割いてよ、お父さんもそんなお母さんが心配だからって早めに帰ってきて。今が一番大変な時期だって言ってたのに」
優斗は頬に熱いものが伝うのを感じたが、瓦解した堤防から濁流の如く流れるそれを拭おうともせずに続けた。
「これからどうすんだよ。よく介護で共倒れっていうだろ。そんな生易しいもんじゃねえよ。この手見ろよ。傷だらけだろ。お父さん高血圧だからコンビニなんかじゃ代用できないんだ。作ってんだ。俺がよ。飯を……」
言いたいことはまだたくさんあったが、もうこれ以上は無理であった。嗚咽が止まらず声が出せない。そんな感情の要因を酌もうともしない祖母はいつから起きていたのか、
「優ちゃんかい、お願いだから起こしてよ。トイレ行きたいんだよ」
と、しゃあしゃあと言い出した。
優斗は最後に、
「勝手に漏らせクソばばあ!俺らを壊すんじゃねえ!」
と、激しく面罵し、腕で目を擦りながら部屋を後にした。
自室のベッドの中に逃げるように潜り込んだ優斗はしばらく獣と時間を共にすることに決め、自然に鼓動が治まるのを待った。さっきの暴言が言ってはいけないことぐらい優斗にも理解できるのだが、それを冷静に考えた時の悔恨を先延ばしにしたいがためであった。
ようやく鼓動が緩まったと思った矢先、家中を轟かせるような甲高い声が優斗の耳を劈いた。
「きょうこー、いるんだろお。ちょっと来ておくれよ。トイレに行かしとくれよ」
優斗はとっさに耳を両手で塞いだ。そうしなければ今すぐにでも飛び起きて祖母の首を絞めていただろう。
ほどなくして京子の細い声がうっすら聞こえてきた。
「はいはい、お母さん。足悪いからトイレには行けないの。分かる?だからオムツ履いているでしょ。そのままでいいのよ」
「嫌だ嫌だ。トイレ行かしておくれよ」
「でも足痛いでしょ。だからそのままでいいの」
ウメの耳がかなり遠いため京子も自然、大きな声を出す破目になっている。優斗は塞いだ耳にも届く母の大きな声を聞きながら、再び涙を流し、うつ伏せになりながら目も堅く閉じた。
耳が遠い祖母ウメと、耳を塞ぐ自分、そしてウメの耳に自分のありったけを込めようとする京子の姿を脳内で想像し、それが俯瞰であることにすら驚かない優斗の指には、タバコが挟まれている。吸うのも忘れてしまっていたのか、もうフィルターの近くまで火種が迫っていた。
優斗はふいに横から声を掛けられた。
「あら優斗君。どうしたの?」
どうやら知らない間に泣いていたようだ。思い出したように目の周りを擦るとやはり濡れていた。
「あ、なんか坂井さんに恥ずかしいとこ見られちゃったなあ」
優斗はそう言うと、着ていたTシャツの裾で目を擦った。
「優斗君、おばあちゃんのこと好き?」
「いや、好きではないです。っていうより、嫌いです」
唐突な質問だったためについ本音が出てしまったが、別に嘘じゃないんだからと思い、訂正を敢えてしなかった。
「そっか。なら尚更だわ。好きでもないのに毎日来て偉いわよ。少なくとも私はそう思うわ」
「そんなもんじゃないですよ。ただ」
「ただ、何?」
次の言葉はさすがに躊躇った。優斗がこのホームに来ている大きな理由がないのだ。皆無というほどでもないのだが。
優斗はタバコを灰皿の中に捨て、坂井の見詰める目を避ける為に視線を中空にやり、恥ずかしさを覚えながらも答えた。
「知りたんですよ、おばあちゃんのこと」
「知りたい、かぁ。重いね、その言葉。人間は身近にいる人のこと知っているようで案外知らないものなのよねえ」
「いや、そうじゃないんです。考えていることや性格とかじゃなくて」
中空から横の坂井に視線を戻すと、今度は坂井の方が空を仰いでいた。
「ますます重いねえ。深い、というか」
「誤解しないでください。そんな含蓄ないですよ。なんていうのかな。どういう風に生きてきたらあそこまで頑固になれるのかなって。まあ、俗に言う波乱万丈を知りたいのかな」
ちょっとクサいな、と優斗は思ったが、隣の坂井は真摯に聞いてくれているようで、いちいち「うんうん」と、頷いてくれることが不思議と嫌味はなく、むしろ優斗にとっては多少有難かった。
「つまりウメさんの歴史ね」
「まあ簡単に言うと」
「それならお母さんが一番ね。親子ってね、必ず似るの。だから聞かなくてもいつか分かる時が来るわ。あ、まだ病院だっけ」
「はい。腰がなかなか治らなくて」
母の京子は自宅での介護のせいで腰を患ってしまい、椎間板ヘルニアと診断された。京子もあと数年で還暦を迎える歳なのでお世辞にも若いとは言えず、歳に比例して完治までの日数が掛かるようだった。
「でもおばあちゃんのせいにしちゃだめよ。そこまでしても助けてあげたい、って思わせるぐらいの人なのよ、ウメさんは。実はすごく優しいのよ。この間なんかね……」
「あ、俺バイトあるから帰ります。続きはまた今度聞きますから。それじゃあ」
(あの流れだと俺を改心させる気だな)
そう思った優斗は逃げるように坂井に背を向け、そばに置いてある自転車に跨った。そして後ろを振り返ることなく飯田プラザを去った。
バイトがある、なんて言うのは帰る口実なので、優斗は途端に暇になってしまった。そもそも優斗はあの坂井という人物が苦手で、いつもペースが乱されるためか坂井に捕まらないようにしているぐらいである。
そんなことを考えていながらペダルを漕いでいると、突然腹の底から巨大な咆哮が聞こえた。どうやら腹が減っているらしい。その筈、朝から何も口にしてないうえ、余計なことをベラベラと喋くってしまったからだろうと優斗は思い、つい先ほど通り過ぎたファストフードで済ませることにし、自転車の向きを真逆にした。
店内に入り時計を見るとまだ午前十一時前であり、店は混雑していない。
「いらっしゃいませ」「店内、フィレオフィッシュセットのポテトMサイズ。コーラで」
優斗自身も自覚しているが、かなりの横着者で、面倒臭がり屋である。そのためにこういう注文になるのは当然であった。
「あと単品でナゲット。マスタード」
店員も慣れたものもので「はいかしこまりました」と動じることなく対応していた。
それだけで事足りるのにもう一品頼んでしまうのも優斗の癖である。コンビニでも大きめの弁当の他におにぎりやカウンターフードを買ってしまうのも常になっていた。
一人でハンバーガーに噛り付きながら優斗はある不安に苛まされていた。その不安とはナゲットである。物理的な問題ではない。何故頼んだのか。食えないわけではないが、それを食わなくては死んでしまう、なんてことはもちろんない。いつもそうだが確かに頼む必要はないのだ。
(まさか、なぁ)
不安を払拭させようとしてもなかなか頭から離れず、むしろ増大してくるのが優斗にもはっきりと分かった。隔世遺伝か、はたまた血筋か。医学的見解はできない。しかし確実にあの人の血を継いでいるらしい。
ナゲットには手を付けず、ハンバーガーをコーラで流し込み、少しだけ残っていたポテトを口に入れ優斗は店を出た。
九月とはいえ夏の陽気は衰えを少しも見せずに大地を暖め、この時ばかりは極寒の地を皆が羨む。優斗もその内の一人で、耳を独占している蝉の喧しい鳴き声と全身から流れていく汗を恨みながら、自転車のペダルに力を込めた。
横浜市で指折りの最新機器と医師の質の高さ、それに加えて充実した設備が整っている磯子南総合病院の二階に母の京子はいた。少し痩せたかな、と優斗は思ったが、入院患者が太ったという話も聞いたことがなかったので若輩者の老婆心はすぐさま消えた。
「今日も暑いわね。でも最近は腰の調子がいいの。もうすぐ退院できそうよ」
「分かったからじっとしてるんだよ。そう言ってこないだも無理して腰をひどくしたじゃないか。腰は要だからね」
はいはい、と言う京子の目はどこか物哀しく見えた。
優斗が椅子に腰掛けると汗がどっと出てきた。人間は動いている時よりもその後に止まった時の方が汗はよく出るが、その汗の量は尋常ではなかった。Tシャツがみるみる変色し、顎からも汗が滝のように滴っている。
「あんた汗すごいわよ。自転車飛ばしてきたの?」
優斗は一瞬返答を躊躇したが、胸に巣食っているしこりを溶かす手立ての近道は京子が知っているという坂井の言葉を思い出し、鈍重ながら口を開いた。
「うん、さっきまでおばあちゃんのとこ行ってた」
最近の京子との会話でウメの話は皆無であり、まるで不文律が存在するかのようにどちらも触れないようにしていた。
やおら優斗が言うものだから京子は焦ったように顔を優斗から背け、「どうだった?」、と当たり障りのない、やけに他人行儀な言葉を返してきた。
「相変わらずだったよ。寝たままだったけど、しっかり飯は食ってるみたい」
「そう、なら良かったわ」
お互いにその後に継ぐ言葉が見つからず、優斗はただただ窓の外を見る他なかった。冷房が効いてきたのか、汗はすでに引いていた。
「この辺りね、昔は海だったのよ」
ふいに京子が喋りかけてきた。虚を衝かれた優斗は訝しげに京子の方に目をやった。昔話だろうか。
「まだ私が小さい頃、お母さんに手を牽かれてね、潮干狩りなんかよくやったのよ」
窓の外に顔を向けながら話す京子の声は懐古に浸っているように思え、戻れない幼少時に対する憧憬も優斗には感じられた。
「潮干狩りに疲れたら帰りはおぶってくれて。家に着いても起きないものだからそのまま寝かせてくれてたらしいの。気丈、というのかしらね、何事にも強かったわ、あの人は」
感慨に浸ると人間はなぜ優しい顔になるのか。それは現実の世界では滅多に見れるものではなく、過去の喜々とした記憶が一ヶ月前に感じた暗澹たる事実すらも覆い隠してしまう、便利な脳の賜物である。
京子の見ている映像は痩せ細った腕ではなく、温かくて途方もないほど広く居心地の良い背中であるに違いない。
「ねえ、俺もおぶってもらってたのかな」
「ええ。優斗は寂しがり屋だったから。おぶってもらえないとすぐ泣くものだから大変だったわよ」
「お母さんにも?」
「あなたはおばあちゃんの背中の方が良かったみたい。私の背中が駄目ならおばあちゃんにバトンタッチ、ってとこね」
初耳だった。まさか、と思い記憶の糸を引っ張っても思い出せない。
「え、でも俺全然覚えてないよ。お母さんにおぶってもらってたのは微かに覚えてるけどさ」
京子はしばらく目を瞑り、柔らかい声で言った。
「ちょっと疲れちゃった。少し眠るわ。また今度話してあげる」
「分かった。じゃあ帰るね」
話したくないのか勿体ぶってるのか、優斗にそれを理解する手立てはないが、母なりの事情があるのだろうと思い、帰ることにした。
半世紀という時間は長いようで短く、短いようで長い。今日だけでそれを何回も往復したのだから疲れるのは必然である。
京子の寝息を確認して病室を出ようとした優斗は一度だけ部屋を振り返った。
カーテンが閉まっていない部屋を晩夏の西日が黄金色に染め上げ、さながら後光に包まれているような京子の顔は菩薩のように神秘的であった。
優斗が自宅に着いた頃、空には群青が拡がっており橙を西の果てに追いやっていた。
「ただいま」
閑散としている我が家に声を掛けると、奥から声が返ってきた。
「おかえり、今日バイトはないのか」
声の主は父の祐介だった。
「あれ、今日早いね」
「いやな、明日母さんの病院に長袖を持ってこうと思ってな。そろそろ秋だし」
「でもまだ暑いじゃん。早いよ」
優斗は声の聞こえる方に向かい、てっきり男臭くなった居間に着いた瞬間、背筋が痺れるような光景を見た。
そこはまるで異空間だった。ソファーの上には衣服が山のように積まれ、床には鞄やら紙袋が散乱しており、なぜか何冊ものアルバムが不規則に点在している。
しかしなにより驚くべきことは、テーブルにある菓子類の山と十本近くあるペットボトル、そして何種類ものサプリメントだ。
この異様な空間に立ち尽くす優斗を見た祐介は、
「いやあ、どこに何があるか分からなくてなあ。片っ端から持って来ちまった。はっはっはっ。許せ」
と、豪快に笑って済ませようとしていた。
「これから戦場でも行くの?それとも今日付けで探検家になったか」
優斗はこんな揶揄にぐうの音すら出ない祐介をさらに追い詰めた。
「それで俺らを忘れないようにクソ重たいアルバムも持って行く気だったんだ。はーん、謎が解けたよ」
虫の息になったところで最後の一撃が裕介を見舞った。
「大好きなお菓子だけじゃ体に悪いからサプリも持って準備よし、ってか」
虫が言い返してきた。
「いや、聞け。優斗よ。これは母さんに持っていく物でだな。その、あれだ、いつも不味い飯でも食ってるんじゃないかと思ってだなあ」
「それで確実に冷蔵庫にも入りやしない沢山のジュースも持って行くんだ」
「いやあ、いろいろ迷ったんだよ。で、結局あれです」
いくらやもめ暮らしが続いてるとは言え、あまりにも酷い。甲斐性無しとはこういう男なのかと諦観していた優斗は、散らかった床にある紫色のスパンコールセーターを拾い、
「こういうやつだけ持って行けばいいんだよ」
と、つっけんどんに言い放った。
それを見た祐介は嘲笑とも思えるほど口の端を上げて言い返してきた。
「バカ、それはおばあちゃんのだ」
「いや、違うよ。これお母さんのだって。覚えてるもん」
「どの頭がそう言わせるんだ。母さんは紫色が嫌いだろ」
合点のいかない優斗は少し解れた糸が出てるセーターを見詰めながら、どこか懐かしい匂いを感じていた。やけにしっくりくる手触りも、匂いも、体が記憶していた。
「でもさ、やっぱりお母さんのだって。この感触忘れないよ」
「それはお前がよくおばあちゃんにおぶってもらってたからじゃなのか」
「え」
(違う。俺はお母さんにおんぶをしてもらって…)
顔は覚えていない。と言うよりも背中に乗っている時分では到底顔が見えるわけなく、ウメの背中を京子の背中と紛えたのだろうか。もし実際にウメの背中だとしても、どうして幼少の人間が背中越しに誰何の確証たるを理解できるだろう。
一瞬にして虚人のように力の入れようが無くなってしまった優斗は、年季の入ったスパンコールセーターだけを握り締め、目を父親に向けた。
祐介は相変わらず居間を右往左往していたが、妙に威厳を含んだ声を出した。
「お前がおばあちゃんの事を良く思っていないのは知ってる。この惨状を見れば容易だ。だがな」
ひとつ咳払いをして祐介は動くのを止めた。
「偉大な京子を産んだ人だ。そして京子の中の確かな母親像でもある。お前がおばあちゃんを否定するのは、京子を蔑ろにするのと同じだ。もしそうなら、父親として、夫として、そしてあの人の息子として、許さない」
そして顔を不細工に歪めていかにも慣れていないウィンクを優斗にして見せた。
「今日お母さんがね、おばあちゃんの事少し話してくれたんだ。最初は驚いたけど、おばあちゃんの話をするお母さん、いい顔してたよ」
すっかり疲労困憊になった祐介はタバコに火を点けて、「そりゃあそうだ」と笑い、ペットボトルを一本開けた。
「そう言えばさ、なんでアルバムがあるの?」
「ああ、アルバムか。そうだ、お前に男を磨く秘訣を教えてやろう。この台詞を女に言ったらイチコロだぞ。いいか。アルバムに時間の概念はない。ふとアルバムが目に入ったら、それは記憶を蘇らせるいい頃合だということだ。つまり記憶の引き出しに掛かってる鍵をアルバムが開けてくれるってわけさ」
クサい。クサ過ぎる。よくもこんな芝居染みた台詞を吐けるものだ、と優斗は思った。
下らないやり取りのなか、一つの色褪せたモノが優斗の視線に捉まった。
「あれは何」
視線を辿った祐介は淡い茶の色をした、荘厳を漂わせる冊子風のモノを拾った。
「これ、おばあちゃんのじゃないか」
手招きした祐介の声は少年が発するそれのようであり、まるで玩具箱の蓋を開ける直前である。
表紙をめくってみると、セピア色をし、淡くなっているもののはっきりとした人物が現れた。
祐介と優斗はそれがウメであることにすぐ気づき、「若っけー」と声を重ねていた。
しかしこの冊子風のアルバムは今まで見たことがない。優斗は何故だろうと思い、勝手にページをめくっている祐介に問うてみた。
「俺、このアルバム見たの初めてだぜ?どこにあったの」
「京子のタンスの奥にあったんだよ。俺も見るのは初めてだ」
つまり京子は祐介にも隠匿していた事になる。隠す理由は分からないが、相応の事だろうし、父に聞いても埒は絶対に明かないだろう。
「お父さんも知らなかったんだ」
「京子の奴、あの人の過去をあまり話さなかったしなぁ」
そう言いつつ無造作にめくったページに、現実離れしながらも、やけに見慣れた服を着た青年が一人写っていた。
「これ軍服、ってやつか」
声色がさっきまでと一変した祐介の顔は険しく、そのページで捲るのを止めてしまった。
確かに軍服である。映画などで見る軍服と変わりないが、雄雄しくありつつ、その目は悲哀を浮かべているようだった。
軍服イコール戦争という等式が一瞬で成り立ち、それが未だに自然である今日に生きていることを優斗はひどく痛感した。
「この人知ってる?」
「残念ながら俺も知らんな」
鈍感だが嘘は言わない父である。やはり、御国の為に男子の本懐を遂げたのだろうか。
後生大事にこれを持っているということは親類であろう。それも至極近くの。
「ただ、お前のおじいちゃんじゃないな。あの人の顔とは少し違う」
「え、じゃあ誰」
「そんなもん俺に分かるか。京子なら知っているかも知れんが」
京子がこのアルバムを秘匿していた事実を知った今、聞く気にもならないのは祐介も同じだろう。しかし、家族の生き様を語るのは家族の役目であり、それが国家規模になった時に初めて、「歴史」が紡がれるものではないか、と優斗はふと写真から感じた。
京子や祐介ら団塊世代が産まれた時代は食うので精一杯、しかし戦争という最悪の嵐が去った当時は明るい未来のみを渇望し、その当事者となるべく団塊世代を国家規模で創り上げた。
今の日本が在るのは敗戦からの反骨でも、団塊人の数でも、生まれ持った性格でもない。「歴史」を紡いできた数え切れない家族と、一時は無になりながらもそこから生きて行く武士道的な潔さ、そしてその人達の背中を必死に見てきた団塊世代が「歴史」を受け取ったからではないか。
優斗は色褪せた写真に写っている青年の眼から注がれる遺志を自分なりにそう解釈し、「一生忘れまい」と誓った。
先月まで響動んでいた木立は今ではすっかり寂しくなり、外の木々で蜩が名残惜しいかのようにひっそり鳴いている。
戦後七十年を向かえ、戦時中を描いたテレビドラマや映画がこぞって話題になり、十年前よりもスペクタクル性に富まれた作品が世を席巻しているのは自分の記憶違いではないだろう、と優斗は大学帰りの電車の中でふと思った。
吊り広告には、「○○原作、太平洋戦争の事実、ここに」、「あの××を実写。愛と悲しみの鎮魂歌、復活」などと極太の明朝字で書かれている。
「ねーあれ超面白そうじゃん。出てるメンツすごいし。あーゆー感動映画好きなんだよねー」
「えー、エグそーじゃん。血とかいっぱい出んでしょ?やだよマジで」
吊り広告に釣られた若い女二人が甲高い声を上げている。
(見たくなくても血を見続けた人がいっぱいいたんだよ)
「でも絶対泣けるって」
(泣いた後どうすんだよ。友達に面白いよ、なんて経験したかのように自慢するのかよ)
「太平洋戦争って第二次大戦でしょ?テレビでよく見るからいいよ」
(お前ら大東亜戦争って言葉知ってるのか)
あの写真を見てからというもの、優斗は七十年前に起こった「戦争」についてやけに熟慮するようになっていた。それが現代の子供に課せられた使命のように思われてならないのだ。
ウメはまだ生きている。早く往生しろ、なんて気持ちは雀の涙ほど、いや、毛ほど、基、馬鹿の三寸もない。そのウメが生きた激震の時代を現代人はどう思っているのか。特攻嫌だ。海の特攻って何?戦艦カッコいい。原爆ヒドい。アメリカ人うざい。アジアの植民地を解放したんだって?
今では当時の資料を大切に保管し、最新鋭のCGと併せて情報はかなり入り易い。しかし、半世紀以上を隔てた現在において戦争の知識はあっても、時代の流れと本心の葛藤に嘆き続けた人々の悲しみを斟酌しない人が多い気がする。
時代のせいにしたくはないが、忘れるのもまた人の性なのか、という感情が湧く度に優斗はあのセピア色をした青年に申し訳ない気持ちがした。
「でもさ、あたし達って幸せだよね」
「どうしたの、急に」
「だって、パパとママがちゃんと家に居てさ、コンビニ行けば何でもあるし。死ぬって言っても成人病が多いじゃん。あれって贅沢病じゃない」
いい事言うじゃん、と優斗が思った矢先、血の気が引いていくのを感じずにはいられなくなってしまった。微温湯の中で悠々と生活している自分自身がいるという事実を不覚にもさっきまで馬鹿にしていた人間に教えられ、自分自身が揶揄の対象になってしまっているからであった。
(俺の方が馬鹿だよな。てめえが脛齧りながら他人に脛齧るんじゃねえよ、だもんな)
「そうだよね。今は便利だし、昔は大変だったんだもんね」
と、もう一人の女がスマートフォンのページロールに精を出しながら答えた。
優斗は「馬鹿」と小さく言った。やはり何を考えているのか分からなくなってくる。今だけは、若い女性を舐めるように忍び見る、ハゲ、デブ、メガネの三重苦に悩む中年男性に同情してしまう。
二人の女はドアに寄り掛かりながら、さっきまでの金切り声を一変したかのような神妙な様子で話を続けていた。反対の座席に座っている優斗には聞こえないが、面持ちから察するに件の映画についてではないかと思う。いや、そうであって欲しいと優斗は切実に思った。
最近オヤジ臭くなったな、と思いつつ講義の疲れからか重くなった目蓋を閉じようとした時、見知らぬ老婆がゆっくり歩いて来るのを優斗は見た。少し癖のある白髪を短くまとめ、容姿、所作共に上品というべき気品さが漂う、旧清華家を思わせる老貴婦人だった。
その老貴婦人は優斗の前で歩みを止めた。
(よりによって俺か)
優斗が刹那の速さで思考を巡らせ席を立とうとすると、老貴婦人は片手で「それは結構よ」といわんばかりに制した。
「いや、でも」
言うよりも先に、老貴婦人は全てを諭したような笑みを鼻梁の通った端正な顔に浮かべ、また歩きだした。
なんだったんだろう、と優斗はとっさの出来事に泡食ったが、狐につままれ狸に化かされるような低俗な感じはなく、むしろ高尚さを感じた。
老貴婦人を目で追うといつに間にか二人組みの女の前に立っていた。
二人は面食らって、「なんですか」とぞんざいに開口し、それを見ていた優斗も、説教かな、と内心昂ぶっていた。
旧華族のような老婆は何も言わない。ただ二人の若い女を見ているだけだったが、そんな奇妙な空間が存在するのに、周りの乗客は誰も見ていなかった。しかし、意識して見ていない訳ではなさそうだった。その空間自体見えないかの様に。
老貴婦人は二人に向かってふいに腰を折り頭を垂れ、慇懃に言い出した。
「これからの事、なにとぞよろしくお願い致します」
それから数秒、ずっとその姿勢のままであった。
二人の女も、
「あ、はい」
と、ただ困ったように返事をする他ない雰囲気の中にいた。
その返事を優斗が聞いた途端、突然電車に慣性が働いた。停止信号か減速指示が出たのか分からないが、かなり急な減速によるものだった。
二人の女は思わずよろけてしまったが、貴婦人は吊革に掴まることなく立っている。しかし、足腰が強そうだという印象は無く、物理的力が効かないようだった。
電車は徐々に速度を落とし、いよいよ止まってしまった。
窓の外には駅があった。しかしよく目を凝らしても見知らぬ駅であった。そもそも駅と呼ばれる場所であるのかも疑わしいほど煩雑な造りであった。焦げ茶色のレンガが積み重なっており、天井部がアーチ状になっている以外は飾り気のない、大正モダンを思わす造りだ。
優斗が外に気を奪われているとドアが静かに開き、例の老貴婦人が滑るように降りていった。
謎の老貴婦人が降りると計ったかのようにドアは閉まり、電車は動き出した。
「あの人、なんだろう。てかさ、アナウンス無かったよね」
優斗は、スマートフォンを片手に持ちながら目をパチクリしている女に一瞥をくれた後、周りの乗客がまたしてもこの不可思議な事態に気付かない事を訝しんだ。
動き出した車内から見知らぬ駅のホームを見ると、さっきの老貴婦人はいなく、一人の少女が歩いていた。年の頃は十代半ばぐらいだろうか。速度が速くなってきた車内からはよく見えない。ただ、確実に現代の様相ではない。織絣にモンペという、まさに戦時中の格好であった。
帰宅し、コンビニ製の夕食を摂った優斗はすぐに寝てしまった。すぐ眠れたが、すぐ目覚めてしまう。つまり、体は疲れているのに鮮明な映像が焼きついた脳は活性状態になっているのであろう。
小説の中でしかないような不思議な体験をしてしまった、というフレーズを何度か小説で見た事はある。だが、実際に経験したとなるとそんな一小節すら馬鹿らしくなる。
もし不思議な出来事があるとしたら、あのアルバムに載っている軍服青年がそのままの姿で出てきて、自分の前で何かメッセージを残す。そんな出来事の方がよっぽどリアルだし、あり得るだろう。
優斗が気を揉んで居間に行くと珍しく祐介がビールを飲んでいた。
「おいダメ親父。明日も仕事だろ。飲んでていいのか」
危うくビールを噴出しそうになった祐介は、
「いきなりダメ親父はないだろう。これでも一応大黒柱だぞ。強度計算は出来ないがな」
と風刺を効かした冗談を言い、はっはっはっ、と笑い出した。
優斗はこの団塊世代の父と一緒にいると気が置けなくて心地良いのだが、普段酒など飲まない祐介がこんな夜更けに一人で酒を飲んでいるのを見るにあたって、父も何かあったのか、とさらに気を揉んでしまう。
「今日さ、変なことあったんだけど、お父さん何もなかった?」
「ああ、あったぞ。総務課のお局、鈴木君がいよいよ結婚らしい。あとは、久しぶりにパチンコで確変が八連……」
「いいよ。分かったよ。何も無いってことがさ。心配して損した」
どうやら杞憂だったらしい。確かに、一見豪快そうで実は引っ込み思案である祐介があの現場に居合わせても、狸寝入りを決め込むだけだろう。
「どうしたんだ、何かあったのか」
舐めるようにビールを飲んでいる祐介は真っ赤な顔で言ってきた。
「帰りの電車でね、全然知らないおばあさんが歩いてきたんだ。そして俺を一瞬見た後、これまた全然知らない若い女性二人にいきなり頭下げてさ。んで結局知らない駅で降りちゃった」
「おいおい、見た夢を語るのはせいぜい中二で辞めておけ」
やはりコイツに相談した自分が馬鹿だった、と優斗は自分自身を恥じ、うなだれた。
しかし誰かに話を聞いてもらうというのはいいものだ。祐介の人柄かも知れないが、幾分頭が静かになってきたのを優斗は感じ、居間を後にした。
まだ温いベッドに入ると即座に睡魔が群れを成して大挙してきたが、抗うことはせず、その流れに身を任せ意識が途切れるのを待った。
意識が戻り時計を見ると針はちょうど正午を指していた。確か寝たのが二時前だったから十時間は寝ている。
今日は講義が無いのでゆっくり朝食兼昼食を摂ろう、と思い居間に向かうと、焼かれていないトーストとハムエッグがテーブルに置かれていた。
「へえ、偉いじゃん」
毎度のことだが、父親の裕介もすごいと思う。定時に起き、定時に出勤し、帰宅は不規則、という生活は絶対に真似出来ない。さらに今は男二人の生活である。真似しようにもなかなかそのような境遇になることすらない。
トーストを焼き、冷めたハムエッグを齧った優斗は味が異様に塩っぱい事に気付き、「馬鹿」と言い、声を潜めて笑った。
トーストの最後の一欠けをほうばった優斗は改めて昨日の事件を思い出していた。
見知らぬ老婆が言った台詞がどうも引っ掛かる。あの二人の女にだけ関係しているならまだしも、周りの乗客が気付かない中で何故自分も目視することができたのか。
もしや、と思い、例のアルバムを見たが、あの老婆は載っていなかった。昔に撮ったであろうウメの写真の他に、あの軍服青年、そして会ったことはない祖父の写真だけだった。
青年の眼光はいつ見ても猛々しい。その目に釘付けとなった優斗は、埃を被ったフィルムを剥がし、写真を手に取ると目と同じ高さに持ってきた。
なんと凛とした青年だろう、とまじまじと見詰める優斗の手に粗い感触が生じた。写真の裏を見ると、折られたような紙がセロハンテープで留められていた。しかし片面が明らかに破れており、大小様々な山が幾つもできている。
大学入試の面接時でさえこんなに緊張はしなかった、と思うぐらい体の硬直はひどかったが、意を決して紙を広げると、拙い行書で書かれた文が二行だけあった。
『是からの事、何卒宜しく御願い致します
武次郎』
これが何を意味するのか優斗にはすぐに理解できた。生半可な知識しかなくても、二度と我が家に帰れないことを予見した際にどこかの基地か前線で書いた最後の肉筆、つまり遺書だということは、悲しいかな直感がそう言ってきてしまう。
ウメに妹がいたのは聞いたことがある。弟のことは聞いてないが、察するにこの武次郎はウメの弟なのだろう。そして我が家に帰ることなく男子の本懐を遂げた英霊の一人になったのか。
優斗は自分とそう変わらぬであろう齢で出征し、涙を人に見せずに戦地に赴いた武次郎を想像した途端に目頭が熱くなっていた。不憫というより、愛する家族と死別するその瞬間まであの雄雄しい顔をしていたのかと思うと、居た堪れなくなった。
七十年越しの手向けです、と言って優斗は涙を溢しながら敬礼をした。
ホームの坂井から「ウメさんが亡くなった」と電話があったのはその日の夜だった。
「見付けちゃったか」
涙を流さずに、むしろどこか安堵した顔で京子は微笑んでいるようだった。
葬儀中は悲しみに浸る余裕などなく、終われば疲労の方が大きく感じる。悲しみに暮れるのは全てが落ち着いてからだった。
「なんで隠していた」
その言葉は祐介が適任だと思っていたので、優斗は黙って二人の会話を聞くことにした。
「個人的な理由なの。なんだかあのアルバムをあなた達に見せるとお母さんがいなくなってしまうようで」
「武次郎さんのことは知っていたのか」
「ええ。お母さんはいつも言ってたわ。武叔父さんを殺した人がいたとしても、その人は悪くないって。戦争と時勢が悪いんだって」
京子は急に息を詰まらせる程の号泣をし始めた。
「泣きながら手紙を読んだんだろうな」
と、消え入りそうな声を出した裕介も瞳に涙を浮かべていた。
「でもあれ千切れていたよね」
悲しい話をぶり返してしまいそうだったが、聞かねば、と思い、優斗は平静を装いながら核心に迫った。
「あの紙は武叔父さんの遺書の最後の二行よ。残りは、おマツさんが持って行ったわ」
京子は息継ぎを必死にさせながら答えた。
この名前も聞いたことはない。ただ、今となってはある程度予想できた。優斗は横にいる祐介を見たが、彼も知っているようで、「あの人も辛かったろうに」と呟いた。
「俺おマツさんに会ったよ」
優斗の両親は二人とも目を丸くして優斗を見た。
「でもおマツさんはお前が小さい時に亡くなってるんだぞ」
「たぶんだけどね。電車の中だよ。お父さん知ってるでしょ。おばあちゃんが死ぬ前の日だっけ。変なおばあさんがいたって。あの人がおマツさんじゃないかな」
「何か言ってきたの?」
京子はいつからか泣き止んでいた。頬には光る筋が残っている。
「俺に言ってないんだけどね。近くにいた二人組の女性に、手紙と同じことを言ってたよ」
「あの子は知ってくれた。ありがとう。って俺には言ってきた」
祐介が口を開いた。俺には、と言ったのか。
優斗には今の祐介の言葉が何を意味するのか理解するまで時間が掛かったが、その後に発した京子の言葉にさらに驚かされた。
「私にも来たの。おマツさんがね。そのおマツさんの言葉を聞いて、お母さんはやっと楽になれるんだ、って思ったわ」
「じゃあお父さんとお母さんの所にも来たんだ」
「うん」「そう」
優斗が不思議な事態に遭遇した日、両親も今は亡きおマツに会い、言伝を授かっていた。あの夜、祐介におかしなことはなかったかと訊いた時、祐介は既に思いを巡らせていたのだという。
術後安静にしていた京子の許に来たおマツは、「夫もこれで浮かばれます。お義姉さんの務めは終わりました。どうか笑顔で」と、言ったらしい。
しかし優斗は合点がいかなかった。あの時何故自分に言わず、赤の他人に言伝を渡したのだろうか。
ウメが七十年ぶりとなる弟との再会をするべく天に昇ってから数週間後、墓石を前に京子は告白した。
「おマツさんは寡黙な人だったのに、病院に現れたときはやけに饒舌でね。もう優斗は受け継いでくれたって。だから優斗に言わず、ちゃんと紡いでくれそうな人に頼むことにしたらしいのよ」
「紡ぐ」や「受け継ぐ」、など優斗には覚えがない。確かに、出征した武次郎の当時の瞳に涙し、ウメが生きた証を二十余年見て、当時二十歳前であり、たった数日で未亡人となったおマツを知った。優斗はこれが何を意図し何を生むのかは、自分の晩年になってみなければ分からないだろう、と高を括ってみたが、果たして血が水よりも濃い時代が続いているのかと憂慮してしまう。
戦時中の軍人の死亡率は三割前後だと聞く。平穏な現代人、ひいては戦争を知らない今の日本人がどれほど裕福なのかという愚問について、戦争を引き合いに出しても実感が湧かないのはある意味当然ではないか。
優斗はウメが戦争を描いたテレビ番組を見て言った言葉をふと思い出した。十年ほど前であったと思う。
「戦争は体験しないに越したことはねえ。んだけど、やっぱり忘れてもらいたくねえな」
確か饅頭を喰らいながらだった。武次郎のことか、戦争の悲劇か。今となっては本意を知る術はない。いや、一人知っている。京子である。この人なら、と優斗が京子に顔を向けると、お供え物から溢れた饅頭を美味そうに食っていた。
祐介が「俺も」と言うと、「嫌よ」と突っ撥ね、饅頭を一口に飲み込んだ。この血はまだまだ濃さそうだ、と優斗は安堵の溜め息を付き、もう一つの溢れた饅頭を口にした。
今日の平均寿命は大変長い。もちろん医療の発達が一番の理由だろう。しかし、須らく戦争を経験した彼らの胸に巣食ってる「想い」を託さずに彼らは逝けないのではないか。そのために必死に生き、結果、長寿大国日本が産まれた。
「じゃあね、おばあちゃん」
謎解きがようやく終わった優斗はタバコに火を点けた。一息吸うとなんとも言えない恍惚に包まれ、一気に吐いた。
白い煙はたちまち空に昇り、彼らが笑っているあの空の上まで届きそうなほど、一条の白となって伸びた。