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聞こえない
プロローグ
「ピアノの音がわからない。」
眩しいくらいのライトに照らされて、黒い大きな物体と向かい合っているときだった。
天才ピアニストと呼ばれた青年は愕然としていた。
どんなに黒い大きな物体に自らの指を走らせても
青年の耳には一音も入ってこなかった。
叩きつけるように、身体を黒い大きな物体にのめり込ませるように、音を求めて指を走らせ続けた。
やがて、その手をぴたりと止めた。
「もう僕には音を拾うことができない。」
青年は、誰にも聞こえない声でぼそりと言った。
演奏をやめた演奏家に視線が集まり、しばらくの沈黙の後
会場内は騒めきに包まれた。
震えが止まらない指。
ピアノの音が拾えない耳。
会場内の空気を気にしてしまう心。
絶望。
それが青年の頭の中を駆け巡った。
青年は立ち上がり、そのまま舞台袖にのろのろと出て行ったのであった。