アネモネの香り
「マイルズ様!おはようございます。いってらっしゃいませ。」
『行ってくる。家のことは任せた。』
これだけ聞くと夫婦の会話だけど、実際は違う。マイルズは、ラツィアーナの方は全く見ずに、執事にその言葉を言っただけである。
そして、忌々しそうにこちらをみて、
『何度も言うが、朝の挨拶は必要ない。ゆっくりやすむように。』
「はい、でも、マイルズ様、」
『リンク、上着を。』
そう言って、今度もマイルズはラツィアーナに背を向けた。一人で着替えて、一人で用意して出てきたけど、やっぱり今日も失敗だった。ラツィアーナは、ため息を押し殺して、微笑んで夫の背中を見送った。
『奥様。』
しばらく、玄関に佇んでいると見送りを済ませたリンクが戻ってくる。リンクはよそよそしいが、いつもどこか心配げだ。ラツィアーナを心配しているのか、マイルズを心配しているのか、もちろん後者だろうけど、彼のような善良な瞳に見つめられるのは、初めてだった。
「リンク。」
『今日は、旦那様のお帰りが遅うございます。さきにお休みになられた方がよろしいかと。』
「そうね、でも、」
『旦那様に、私が叱られてしまいます。どうか、さきにお休み下さいませ。』
どうして、そうまで、いうのだろうか。じっと、見つめるとリンクは困ったように呻いた。
『今日は、王女殿下主催の晩餐会ですので。』
彼は、うかがうようにこちらを見た。ラツィアーナが癇癪でも起こすと思っているのだろうか。なぜ、私は呼ばれないの。とか。なぜ、愛し合っていると噂だった夫と王女が会うの。とか。
「そうなの。なら、仕方ないのね。」
ラツィアーナは微笑んだ。なら、仕方がない。夫がいつもより少しめかしこんでいたことも仕方がないし、心なしか機嫌が良かったのが、ラツィアーナにあってしぼんでしまったことも仕方がないし、いつもにもまして腫れもの扱いなのも仕方がない。
『ラツィアーナ様は…』
「何?リンク。」
続きはよくわからなかった。ラツィアーナが笑っていると、リンクは少し困った顔ばかりする。どうすれば、ラツィアーナが笑って、みんなが笑ってくれるようなことになるのかわからない。でも、ラツィアーナは一度でいいからそうなって欲しいと思っていた。
『いえ。今日は、どう過ごされますか。』
「そうね…。」
ラツィアーナには、やることがない。昼間にはやることがない。夜にもやることがない。屋敷の主人が嫌がるので、女主人の仕事は何一つできない。壁紙の色を決めるのも、家具を決めるのも、カーテンを決めるのもラツィアーナには許されない。あまりに暇で、複雑なビルハルツ家の紋章をそらで刺繍できるようになった。今日は、ハンカチ二枚に刺繍した。そのハンカチを一度マイルズに渡したら、ゴミでも見るような目で見て、その後すぐにリンクに渡した。まあ、そうなるとは思っていたけれど、地味に心がえぐれた。
「マイルズ様、おかえりなさいませ。」
『奥様、』
ラツィアーナは今日は早く休むよう再三言われていた。でも、結局迎えの挨拶に出てきた。それを、マイルズは忌々しげに見ている。なんとも、悲しいことだ。
「お夜食が出来ていますがいかがなさいますか?それとも湯を?」
いつものように言ったが、マイルズは黙ったままだ。ああ、今日も失敗だ。そう悟っても微笑みを崩さない。本当に今の今まで機嫌が良かったのだろうマイルズは見る影もない。恋人に会えたのに、それを妻がぶち壊したのだから当然といえば当然だった。
『あなたは、嫌がらせがしたいのか。』
そう、低い低い声で言われて、ラツィアーナは歩みを止めた。ああ、今日のは、特大の失敗だったみたいだ。ラツィアーナはこまってしまって、言葉を出すのもためらった。そうやってためらっている間に、夫はラツィアーナの方に歩いてきて、そのまま追い越して部屋に行ってしまう。あんな速さで歩かれたら、追いつけない。それを知ってか知らずか、マイルズの背はどんどん遠ざかった。夫と行き交う時にふわりと香った香水には覚えがあった。王女の香りだ。香りが移るほど近くにいたのか。
『奥様…』
「リンク、言わないで。あなたの言うとおりにしておけばよかったと今、反省しているところよ。」
『いいえ。そのようなこと。奥様、お体が冷えます。お部屋に戻りましょう。』
「私は、いいの。マイルズ様の方に行って。」
『いいえ。マイルズ様には他の者がおりますゆえ。』
「ありがとう。リンク。」
ラツィアーナは微笑んだ。泣きたい気分だったけど。
少しでも仲良くなりたいというのは、ラツィアーナの独りよがりの思いだとこうして毎日突きつけられるのだ。