ヒヤシンスの雨
ラツィアーナが生まれたとき、父は舌打ちしたそうだ。女か、と。それは、悲しいことではあったが、ラツィアーナにとっては唯一幸運であったことなのだろう。父と同じにならずに済んだのだから。でも、これが、自分の運命だと受け入れるのには、少しの時間が必要だった。今まで、何度も想像していたことなのに、この現実が少しばかり怖くて指先が震えている。
わかっていたことだった。こうして牢に入れられて、処刑を待つ運命だということは。あの人と結婚した瞬間から。わかっていたことだったのに。
結婚した瞬間が、ラツィアーナにとって最も幸せな瞬間だったろう。例え、それが、こうなるための計画のうちだったとしても。
わかっている。なのに、ラツィアーナは待っていた。王子様が迎えに来てくれないかなんて心の片隅で。そんなはずないことはわかっているのに。
『ラツィアーナ・ド・ビルハルツ。』
石の牢は冷たくて、ラツィアーナの体はひどく冷えてしまっていた。わずかに顔を上げると、看守の曇った顔が見える。
『時間だ。』
「…はい。」
ラツィアーナは微笑んだ。少しばかり震えてしまったけど、上手に笑えているはずだ。
看守は面食らったような顔をしている。何も分かっていない愚か者だと思っただろうか。それとも気丈な娘だと思ってくれただろうか。だが、ラツィアーナはどちらでもない。
『祈りは済ませたか。』
「はい。心遣いありがとうございます。もう、大丈夫です。」
大丈夫だ。自分は大丈夫。マイルズとの記憶があれば、自分は何も怖くない。そう奮い立たせて、立ち上がる。マイルズの家に与えられた服の中で一番質素なものだ。これでは、盛り上がりに欠けてしまうだろうか。民衆が求めるのは、栄華を極め、地に落ちていくマンソン一族の生き残りなのに。申し訳ないな、心にもない謝罪を思いながら看守の後ろを歩いた。紐でくくられた両手を見ながら、ラツィアーナは幸せな記憶をたどった。
「マイルズ様!おかえりなさいませ。」
もう夜は更けていたが、ラツィアーナは着替えもせずにマイルズを待っていた。夫が働いているのに寝るのは気が引けたからだ。
『まだ、起きていたのか。』
マイルズの声は硬く、とても他人行儀だ。一度抱いただけの妻に興味はないのか、目も合わせてくれないけれど、ラツィアーナは、とても幸せだった。誰かにおかえりなさいと言える。それも、マイルズに言えることがたまらなく幸せだった。
どこかよそよそしい使用人たちと同様、マイルズもよそよそしいし、おそらく世間一般の夫婦のようにはなれないけれど。もう少しだけでも仲良くなりたくて、毎日こうして待っているがマイルズの態度は一向に変わらない。致し方なく娶った妻を、ぞんざいに扱っても、おそらくは問題ないし、ずっと先の未来ではマイルズは悲劇の夫として物語られる。そして、きっと、ラツィアーナはお姫様と王子様の仲を引き裂く悪い魔女だ。
「お夜食の準備は出来ていますが、いかがなさいますか?それともお湯を?」
『何度も言うが、君は先に寝ていていい。』
「ええ、でも、」
『リンク、湯の用意を。』
執事にそれだけ言うと、スタスタと歩いていってしまった。今日も、失敗か。ラツィアーナは笑ってその背を見送って、歩き始めてしまったマイルズが踏んだタイルと同じところを踏んで歩いてみる。そうすれば、彼に近づける?彼と仲良くなれるの?そんなはずないけれど、ラツィアーナはそんなことを繰り返していた。マイルズのあとを追っているはずなのに、全然追いつけなくて、結局は広い屋敷で一人になって、ラツィアーナは部屋に戻ることにした。ラツィアーナの足は他の人のように素早くは歩けない。昔大怪我をしたせいで、早くは歩けない。父の厳しい訓練という名の拷問によって、人に悟られないように歩くことはできるようになったけど、雨が降り出す前はひどく痛んだ。そんなときは誰かにさすって欲しいけど、誰もさすってくれたことはない。父がそんなことするはずないし、継母はラツィアーナのことが大嫌い。新しく夫となったマイルズにとっても、ラツィアーナは目の上のたんこぶで、いらないもの。だから、ラツィアーナは、明日は雨だなと思いながら、一人で着替えて、一人で横になって、一人で足をさすっていた。
「おやすみなさいませ、マイルズ様。」
本当なら夫婦の部屋になるはずだったこの寝室も、マイルズが訪れたのは初夜の一度きりで、それ以来、一度も夫の訪れはない。あの時、泣かなければ良かったのだろうか。そしたら、マイルズはまた来てくれたのだろうか。きっとそんなことはないのだろうな。ラツィアーナは目を閉じながらそんなことを考えているうちに眠ってしまった。