私と小説を選ぶ理由
私は小説が好きです。
それは活字を追うのが楽しくて仕方がないだとか、昨今の風潮で趣味が読書だと読むものの内容はどうあれ知的に見られるとか、そういうのもあるかもしれませんが、これが一番大きいだろうと思える理由は、思考がダイレクトに流れ込む創作だと思えるからです。
思想とは人間自身の核であり本体ですから、小説というものは言わば自分を書き出して見せる事に等しく、読み手側は人間一人を堪能する事を目的にしていると考えています。
私はもう人間大好きで、生まれてから死ぬまで人類を愛していますし、この人間一人を堪能する事が辞められなく堪らないんですよね。 と書くとなんだか気持ち悪いのでここら辺で切りますが。
さて置き、先ほどの話は、私はライトノベルが書きたい訳ですけれど、ライトノベルの書き方を学んでいると、時々「作者の思想を押し付けるのは良くありません。 読者が心地よいものを書きましょう」みたいな事が書いてあるのが、気になって気になって仕方が無いというお話の前置きだったのですがここについて最近は悩んでいます。
というのも前置きにある通り、私は小説をエンタテインメントはエンタテインメントでも、誰かに届けるために作るエンタテインメントでは無いと思っている節がある訳です。
勿論全く伝える気が無い創作物というものは、公開する意義に疑問がありますが、他人に合わせて伝えるどころか受け入れやすさだけを考えて作った創作物もまた同じなのでは無いかと考えるからです。
私のような若輩者がこうして疑問視する事自体が稚拙で未熟かもしれませんが、これを思っていないかのように偽り、言葉に出さない事は更に稚拙である気がして、ここを考えないとどうにもライトノベルと言うものを書けないかなと。
小説は人間そのものを見せるものですから、相手に送る際にねじ曲げてしまっては虚像が生まれてしまうだけで、本来の意味が失われてしまう訳ですし、何より相手が受け入れやすいエンタテインメントを突き詰めていけば、そもそも文字だけの小説なんかより、音楽や映画、アニメのが絶対いいのでは無いかと。 小説は目が見えて、かつ言語がわからなければ何も伝わらない訳ですからね。
伝わり辛さで言えばエンタテインメント内でトップクラスであろう小説を何故選ぶのか? を考えればやはり、思想を言葉で表す事に意味があるのかなと思います。
映像で思想を表すのって結構ノイジーなんですよね。 まず表現の伝わり方がそもそも技術的なクオリティに依存していたり、説明するのに尺が要する事が多かったり、ペース配分の概念があったりして。
勿論小説も上記のような要素はありますけれど、映像ほどシビアではありませんし、何はともあれダイレクトさは一番なんじゃ無いかと思います。
言語によって思考が成り立っているなんて話しがありますが、実際に日本語と英語では考え方の方向性が違うって言う方が結構いたりして、私はそれを信じているので言語というのは思考の原型であって、それをアウトプットするのは何より純度が高いと考えています。
私自身は日本語ぐらいしか喋れなくて、精々観光旅行へ行った国のパンフレットにある挨拶やお礼くらいしか言えませんが。
それでもやっぱり、例えば中国語を口に出すと、日本語よりハッキリ発音する必要があるので(四声というアクセント分けで同じ発音の言葉でも違う意味を表す概念があるんです) 自然と気分がシャッキリとしますし、逆にインドネシア語(と言っても元々はマレー語の方言だそうですが)を話すと日本語のようにゆったりしていて気分も弛緩しますから、そんな私でも実感があります。
そんな純度の高い思考一本で生み出す小説を書くのに、気が向かない題材を、「こっちのがウケるらしいから」って書くのってどうなんだって気がして。
心に嘘をついてしまっては、元も子もないような気がするんですよね。
とは言っても商業は売れてなんぼ。 資本主義の社会なのでそうはいっていられませんが、それでもどうせ書くならば、人に届く、ストレートな思考を小説にしたいなあと思っています。
そういうわけで、例えばアニメで流行っているからとかで小説に盛り込んでしまうと、アニメの劣化版になってしまうので、そういうのは良く無いんじゃ無いかなあと思う。 みたいな締めでしょうか?
小説には、小説の武器があるのですからね。
ここでは悩んでいる。 なんて書きましたが、Fallout4が楽しくて書く時間が減っただけです。 いやあ最高ですね。 ゲームは。