第7話 飛鳥、様子を窺う
液体を啜る濡れた音と、それを嚥下する己の喉の音は、正直不快だ。
耳障りで、勘に障る。
「……」
ずるりと牙を引き抜くと同時に、女の首筋に穿たれた傷痕は塞がっていく。元々浅く突き破った程度だ、そこまで血で汚れることもなかった。
足下に倒れた姿を見下ろしながら、唇の端に付いた赤をゆっくりと拭う。
頭の痛みも、不快感も、全て嘘のように無くなっていた。舌先に、約十年振りの味が広がる。
不意に、同族の狂ったような哄笑が聞こえた気がした。
『人間の、特に女は格別だな。 最も力を取り込むことができるし、一度味わったらもう他のモノは口にできない。それ以外はゴミ以下だ』
『人間なんて我らに比べたら犬畜生にも等しい存在なのだから、身を差し出せることを光栄に思ってもらいたいものだね!』
そういう場面に出会す度に、面倒なことになるからと特に何も言わなかったが、やはりそうだ。
心底、理解できない。
確かに動物と人間、どちらの血が美味いかと聞かれれば……人間、だと思う。だが、それが執着へと繋がらない。
別に人間だけに拘らなくても、動物の血でだって十分に生きていけるじゃないか、と思ってしまうのだ。
多くの同族が賛同する、『自分達こそ至高』という考えもわからない。
他の生物より長い寿命を持つことが、老いを知らないことが、不可思議な力を扱えることが、強靱な肉体を持つことが、そんなにも偉いのか。それの何に、価値を見出せというのか。
やはりこんなことを考える自分は、同族の中では異端なのだろう。そんな異端が、数少ない上位種として名を知られているのはなんとも皮肉なものだ。
正確に言えば、自分の場合は名ではなくあくまで通称だが。
「上級ヴァンパイア、か」
一口にヴァンパイアといってもその実力は個体差が激しく、上級、中級、下級、最下級とランク分けされる中で、ほとんどは中級と下級に位置する。 中級と下級を分ける決定的な差は扱える能力の種類、ひいては魔力量の違いだ。
吸血、姿の変化などは全てのヴァンパイアが共通して持ち合わせている。が、その他再生能力、血液支配、変化を超えた獣や異形への変身、分身の生成、他者の魂の吸収など……一般的にヴァンパイアが持っているとされる能力を一通り扱えるのが中級。能力の一部、もしくは行使するにあたって何かしらの制限がかかる者達を下級と呼ぶ。
最下級はいわゆる『元人間』や動物のヴァンパイア。……つまりは糧にされた者達の、成れの果てだ。
これらは最下級を除いて全て力の強弱で分類されているが、ある程度見た目で判別可能である。強いヴァンパイアほど瞳は澄んだ赤に近付き、力の弱い者ほど濁っていたり、爛れていたりする。
そしてそれら全てを凌駕し、圧倒的な実力を誇る者。一般的な能力にとどまらず、一人一人が特有の強大な力を蔵し、宝石とも例えられる美しい深紅の目を持つことを許された存在。それこそが、上級ヴァンパイアだ。
聞こえはいいかもしれないが、事実は違う。望まぬ盲信も畏怖もそして嫉妬も、鬱陶しくてならなかった。
それを思えば、今は。
「……今、は?」
自分は、なんと思ったのだろう?
少しの間思考に沈んでいると、足下の影がぴくりと動いた。
ゆっくりと女が体を起こす。その目はどこか虚ろだ。投げ出された荷物を手に取り、立ち上がる。そしてこちらには見向きもせず、ふらふらと公園の出口に向かって歩き出した。
おそらく彼女が家に帰りつく頃までには自我を取り戻し、全てを忘れているだろう。
それを見届けると同時に公園内に張った『結界』を解除し、瞳を黒に戻す。
鞄を拾い上げ、さっと公園を後にした。
次の日。
教室に入った時になんとなくその姿がわかってしまうのは、相手もまた同じなのだろうか。そんなことを、彼女の顔を眺めながら思った。
「おはよう。今日はもう大丈夫なの?」
「ああ」
ふーん、と相槌を打ちながらも上から下まで見回される。
別に普段と変わらないと思うのだが、何かおかしいところでもあるのだろうか。
「どうした」
「ううん、無理してないかなって心配になっただけ。大丈夫なら安心したよ、またね」
そう言うと、今日は随分あっさりと自分の席に戻っていった。
気遣われたのだろうか。珍しいこともあるものだ、と思いながらこちらも自分の席に向かった。
感覚が鋭いというのも、時には考え物だと思う。
飛鳥とは朝一度話したきりだ。休み時間にこちらに来ることもない。よって今日もまた静かな一日を過ごしているのだが、その代わり彼女がこちらを気にしている気配がバシバシと伝わってくる。
「……」
最初はまぁ仕方のないことかと流していたが、流石に限界は来る。
チラチラとこちらを窺われるのはかなり気になるし、そんなに気になるなら妙な遠慮を発揮しないでいつものように聞け、と言いたかった。
ちら。
「……」
……ちら。
「…………」
上級ヴァンパイアとして見世物扱いを受けることには慣れていたつもりだが、どうやら人として過ごすうちにその感覚も全て吹っ飛ばしていたようだ。
何より、いつもズケズケと近寄ってくるような奴があんな態度を取り続ければ気にもなる。
ちょうど昼休みだしなと立ち上がるか否か迷っていた時、彼女がいきなり慌てたように携帯を取り出した。画面を確認すると教室を飛び出していく。
この学校では授業中電源を切っておけば携帯の使用は許可されている。律儀に電源を切るものなど実際はごく少数で、大半はサイレントにしていたりするが、要は授業の妨げにさえならなければ問題は無い。
……何か、急ぎの連絡だったのだろうか。
しかし教室の中で声をかけるよりはいいかと、この機会を利用させてもらうことにした。どこに行ったかは知らないが、『気配』を辿れば問題はない。
そう判断し、席を立った。
意外とすぐに飛鳥は見つかった。玄関の下駄箱に背中を預け、携帯で話している。
「はい……はい、よかった。わかりました。ありがとうございます」
ちょうど終わるところだったようだ。彼女が電源ボタンを押すのを確認して声をかける。
「京池」
「! う、わっ」
飛鳥は大袈裟なほどに肩を跳ね上げた。そんなに驚くことかと思う間もなく彼女の手から携帯が滑り落ちる。
「あ……!」
床に向かって落下していた携帯が、空中で静止する。
飛鳥の膝上くらいの高さで、自分の手が彼女の携帯を掴んだからだった。
「あ」
「……壊れるぞ」
そう言って飛鳥に携帯を手渡す。彼女は慌てて受け取った。
「あ、ありがとう」
「別に」
いつもならここで彼女が会話を続けてくるが、今日は携帯と自分の顔を交互に見るだけでなかなか口を開かない。
なんとも言えない間が二人を支配する。見ようによっては非常に青春な場面なのだが、当の二人はそんな想像を巡らせるような心境ではなかった。