第5話 薫、ダウンする
夢を見た。
あれからどのくらい経ったのかは覚えていないが、行きずりの同族の夢だった。
その時に言われた言葉を、今でも覚えている。
どこか疲れたような顔をしたあれは、強い感情を持てないと言った俺に対して『それは賢い生き方だね』と笑った。
『普通はほとんど本能で生きてるような生き物だからね。感情で何もかも決まるような。そんなんだから、怖い敵が生まれた。気持ちいいくらいの自業自得だよね』
自分達の行いが自分達を殺す。
なら、殺されるようなことをしないで生きるっていうのは賢いよ。楽しいのかは、わからないけど――そう言って、去っていった。
確かに、楽しくはないのかもしれない。だが、疲れると思うようなこともない。
ただただ続くだけの穏やかな日々は、自分にとって悪くなかった。
昔死にかけたのも、自分が何かしたわけではない。あれは完璧に巡り合わせが悪かった。
もしあんなことがなければ、これからもずっと平穏は続いていたはずだ。
だからそれを、壊さないでほしいのにと――
「おはよう薫君」
「……」
切実に願ったところでこの女には届かないんだろうな、と内心脱力する。
言葉にしなければ納得しない、という言い分はわからないでもないが、これに関しては馬鹿正直に理由を話して納得されるわけがない。頭がおかしい認定を受けて終わりだろう。
そんな事情も知らず、随分と傲慢なものだ。
体の奥底に溜まる不快感を誤魔化すように、長く息を吐き出した。思わず額を押さえる。
「……朝から、滅入らせてくれる」
もっとも、この不快感には別の要因が絡んでいるのだが。
「ん?体調良くないの?」
「……」
頭が、痛い。
少し、間隔を空け過ぎたのか。確かに『最後』がいつだったのかはよく覚えていなかった。
頭が痛い。授業を受けていても集中できない。教師の声が全て上滑りして聞こえる。
ひたすら、不快だった。
「薫君?」
やっと3時間目が終了し、目を閉じて一息ついていると、もうどこか馴染みになってしまった声が間近で聞こえた。
胡乱な目で見上げれば、そこには心配そうにこちらを見下ろす飛鳥がいる。
「やっぱり、体調悪いんじゃないの?」
「……」
「気持ち悪そうに、ずっと胸抑えてるし」
言われて初めて、自分が胸の辺りのシャツを握り締めていたことに気付く。
正確に言えば、不快なのは胸ではないのだが。
「保健室行きなよ、あそこなら広くてゆっくりできるから。薫君は一人になりたいだろうし、先生もうるさくないからぴったりだよ」
そう言って手を差し伸べてきた。いつも一人にさせてはくれないくせに、よく言う。
でも今はその好意に甘えようかと思った。今の状態で大勢の人の中にいるのは正直きつい。
何より、再三放っておけだの関わるなだのと突き放しているが、自分は別に彼女が嫌いなわけではないのだ。自分にとってプラスになるのなら、彼女の手を取ることに躊躇いは無い。
「……そうする」
「じゃあ保健室行こっか。そこで休みますって言えばいいから」
「……頼む」
そこでやっと、飛鳥は安心したように笑った。
「上着掛けとくからちょうだい」
「ああ、悪い」
彼女はいーからいーから、と軽い調子で受け取る。それを横目に見ながらベッドの上に腰を下ろした。
しばらく一人で横になっていればマシになると信じたい。いつもいきなりやってくるこの不快感に悩まされる時は、自身の体を疎ましく思う。
それでも、頻度は少ない方らしい。自分より弱い者達はこれほど酷くはならないが、もっと頻繁に起こると聞く。自分の場合は『溜め』の時間を長く取れるが、その分来る時は一気に来るのだ。どちらがいいかと問われれば、自信を持って『どちらも良くはない』と答えることができるだろう。
……そんな思考さえ、だんだんと不快感に支配されていく。
「じゃあ私は行くから、横になって休みなよ。もし良くならなかったら早退し……」
パシッ、と軽い音が響き、飛鳥が驚いたように薫の方を向いた。
「……薫、君?」
「……」
飛鳥の視線の先では、左手で顔全体を覆った薫が右手を伸ばし、自身の腕を掴んでいた。
「どうしたの? なんかホントにやばそうなんだけど……」
「迷惑、かけたな」
顔は覆ったままで、はっきりとそう口にした。
そのことに内心安堵する。自分は冷静であると。体が若干意思に反する行動を取ったとしても、制御できる。
そう、まさに今のように。
「今日は、助かった。ありが……」
そう言いつつ顔を上げ、礼の途中で言葉が途切れる。
飛鳥が、見事なまでにポカーンとした顔でこちらを見ていたからだった。まさに、ポカーン。人の顔って本当にこういう風になれるのか、と思わず感心した。
しばらくそのまま微妙な空気が続いたが、飛鳥がふと我に返ったような顔になった。そこから一気に赤くなり、
「……あ、うん。いや、当然のことしただけだしね、心配だったし? 薫君には拒否られたけど、一応、私は友達になりたいって思ってるわけだし? 友達の心配するのは当たり前だし、あぁいやまだ友達って認めてもらったわけじゃないんだけどね」
自由な方の手を顔の前でぶんぶんと振りながら、一気に捲し立てるようにそう言った。その脈絡のなさから、たぶん彼女自身何を言っているのかわかってないんじゃないかと思う。
何をそんなに焦っているのだろう。こちらとしては礼を言おうとしただけなのだが。
「……ああ。ありがとう」
だが先ほどは途中で止めてしまったので、改めて礼を言うべきだろう。
そう思って彼女の腕を開放しつつ口にしたのだが、聞いた瞬間飛鳥はさらに真っ赤になった。なんなんだ一体。
「いやいやいや、大丈夫だから! そ、そうだ、ゆっくり休んでね、それじゃ!」
言うが早いか、彼女は颯爽とカーテンを捲り、パタパタと駆けていった。途中で養護教諭に「あら、どうしたのー?」と声をかけられているのが聞こえたが、「いえっなんでもありませんそれじゃ!」という言葉とともに勢いよくドアを開き、その向こうに消えていく。
しばらく呆然としていたが、とりあえず横になろうと布団に手を掛ける。その時足音が聞こえてきて、カーテンが再び捲られた。
養護教諭だった。まぁ飛鳥の様子を見れば、何事かと思うのも無理はなかったと思う。
「大丈夫?寝られる?」
「はい」
「そう。……心配してついてきてくれるなんて優しい彼女さんね。でもあんまり構い過ぎちゃダメよ?」
「……何のことですか?」
「あら。彼女真っ赤だったから、てっきりそういうことなのかと思っちゃったけど」
養護教諭はくすりと笑い、去っていく。
……最近こればかり思っている気がする。本当になんなんだ。