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ヤカツの血  作者: 十和
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第11話 ある朝

 全て今更だとわかっていて、それでも彼女は後悔していた。

 なんでこんな時間になってしまったのだろう。なんで近道だからといってこんな道を通ることを選んでしまったのだろう。なんで自分の身には危ないことなど起きないと、根拠もなく安心していられたのだろう――と。

 どう見ても走るのには向かないブーツで、それでも懸命に逃げようと足を動かす。気を抜けば倒れてしまいそうだが、止まることなどできなかった。それだけは、してはいけない。

 捕まれば終わりなのだと、言われなくとも思い知らされた。

 それほどに、『あの目』は異常だった。


「……あっ!」


 だが、やがて限界を迎えた足は縺れ、地面に倒れ伏した。


「いっ、た……」


 強烈な痛みと息苦しさが体を襲う。満足に悲鳴を上げることすらできない。おそらく今ので、体のあちこちに傷を作ってしまったことだろう。

 どうして、こんな目に。

 どうして、自分があんなものと鉢合わせてしまったのか。


「う……」


 何とか立ち上がろうとするが、その前に聞こえてきた足音に硬直する。

 恐怖に引きつった顔でゆっくりと後ろを振り向くと、そこには自分を追いかけてきた『あの目』がいた。

 正確には、見知らぬ男が立っていた。

 背後にいるということは自分と同じだけの距離を走ったはずだが、息が上がっているような素振りは全く無い。むしろ呼吸をしているのかさえも怪しいと思ってしまう。男はただ静かに、影のように立って自分を見下ろしていた。

 薄闇に浮かぶ顔立ちは日本人のものだが、その目は爛れた赤っぽい色をしている。そして、常人にはあり得ぬような、異様な光を宿していた。


「ひ……!」


 うまく力が入らず、もがくように後ずさる。そんなことをしても無駄だということはどこかで理解していたが、認めたくなかった。

 こんなところで、こんな形で、自分の人生が終わってしまうなど、認められるはずがなかった。

 頭を振りながらそれを拒絶する。近付いて来ないでと、必死に願う。

 しかしそれを見た男は、笑った。


「―ーハハ」


 目の前の獲物が無様な姿を晒すのを見て、獲物の体から滲み出す甘美な液体の香りをとらえ、楽しそうに笑っていた。

 そして笑みの形に引きつった口元からは、鋭い犬歯が覗く。


「ハハハハハッ!」

「……」


 その目と牙が迫ってくるのを、ただ見ていることしかできなかった。

 そして次の瞬間、目の前が真っ赤に染まる。


「ハハ、ガッ!?」


 ――自分に襲いかかってきた、男の血で。


「……えっ?」


 これはおかしい。今死ぬべきは、自分のはずだ。刈り取られようとしていたのは、自分の命だったはずなのだ。

 なのになぜ、男が苦悶の声を上げるのか。なぜ、その首から銀色の刃が飛び出しているのか。

 普段であればすぐさま嘔吐していたであろうグロテスクな光景を前にしても、精神に受けた衝撃が大きすぎて現実の光景だと認識することができない。


「グ、ガ……!」


 穴の空いた喉と口腔から鮮血を撒き散らしながら、男は目線だけを斜め後ろに向ける。

 いつの間にかそこに、もう一人謎の人物が現れていた。その人物が持つ銀の刃が男の背後から喉を貫通し、柄の部分まで血を滴らせている。

 丈の長い黒ジャケットを着込み、フードを目深に被っているためその人相はわからない。しかし唯一見える口元は、何の感情も浮かべてはいなかった。

 そこには男に対する憎悪も、男の命を奪うことに対する愉悦も無い。ただ自分がすべきことを実行したという、冷徹さだけが存在していた。


「ガ、ゲァッ!?」


 男が鋭く尖った己の爪を向けたが、その人物は爪が届く前に手首を捻って根元近くまで突き刺さっている刃を薙ぐ。肉の抵抗など全く感じさせない程の一閃だった。

 鋭いその軌跡を追うようにして、さらに鮮血が宙を舞う。

 首を半分ほど切断された男は潰れた叫び声を上げながら後退り、突如現れた『敵』に恨みのこもった視線を向けようとして。

 その前に空気を切る音と共に飛んできた突きで心臓を貫かれ、顔を上げることなく崩れ落ちた。


「……」


 しばらく動かなくなった男を見つめていた人物は、不意に顔を上げる。

 その先には呆けた顔をした女が座り込んでいた。が、次の瞬間ふっと力が抜けたように後ろに倒れ込む。

 近付いて見下ろすと、蒼白な顔で気を失っていた。どうやら気力が限界を迎えたらしい。

 一応脈を取り、死んではいないことを確認すると、その人物は用は済んだと言わんばかりに黒ジャケットを翻してその場を立ち去る。

 遠くからサイレンが聞こえてくる中、暗い路地には静寂が戻っていた。




 窓から差し込む光と熱を感じて、ゆるゆると目を開く。


「……んー」


 飛鳥は一度伸びをすると、ベッドから身を起こした。

 ドアを開け、とんとんと軽い音を立てて階段を下りる。と、その先に妹の姿を見つけた。


朝飛(あさひ)、おはよ。今日は早いね」

「あ、お姉ちゃんおはよー。うん、今日は部活の朝練あるから」

「そっか。飛高兄(ひだかにぃ)は?」

「お兄ちゃんはさっき起こしたけど、まだ来ないからたぶん二度寝してる」

「飛高兄、朝弱いからね」


 顔をしかめる朝飛に苦笑を返す。朝飛は「あと10分しても来なかったら叩き起こしてやる」と言って洗面所に入っていった。

 朝の時間は貴重だ。自分も早く朝食を取ろうとダイニングへ向かう。


「お母さん、おはよ」

「おはよう、飛鳥」


 ダイニングテーブルには既に朝食の用意がされていて、奥のキッチンには母がいた。

 いつも通りの挨拶をすると、いつも通りの穏やかな笑みが返ってくる。

 自分の定位置について何気なくテレビを見ると、ニュースが流れていた。


「あ」


 とある路地で暴漢が出没し、女性が軽傷を負った、という内容だった。容疑者の男は行方不明、女性は錯乱がひどく、警察は男の行方を追っている――らしい。

 しかし重要なのは、そのとある路地の場所だ。というのも、自分が通学に使っている駅付近のモール街からそう遠くない、工場地帯なのである。昼間はそれなりに人やトラックも多いが、夜になると打って変わって暗く静かな路地となる。


「……この辺りも物騒になってきたわね」

「ん。気をつける」


 眉を潜める母に、飛鳥はそう返した。

 母にはいろいろと感謝しているし、兄や妹にも心配をかけるわけにはいかない。軽く聞こえているかもしれないが、それは紛れもなく飛鳥の本心だった。


「ええ。飛鳥はしっかりしているし、子供達のことはみんな信じてるけど、気をつけてね」

「うん」


 皿を片付けようと立ち上がったところで、二階から「お兄ちゃん寝るな、起きろー!」という朝飛の叫びが聞こえた。思わず母と顔を見合わせる。


「……飛高は、朝以外はしっかりしてるんだけどね」

「そうだね、朝以外はね」


 お互いに苦笑する。

 そんな、和やかな朝だった。

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