第1話 生き延びた男
奴らを見たら身を隠せ。
奴らと戦ってはならない。
奴らは、忌々しき――毒花。
「……う……」
いつ死んでもおかしくないほどの苦しみを訴える体に鞭打って、森の中の道なき道をひたすら歩いていく。
生きて何かを成したいわけではない。だからといって死にたくもなかった。
逃げるように、足を動かし続ける。
「ぐ……ごほっ……」
木の幹に手を付き、何度目かわからない血塊を吐き出す。
服にべったりと付いた血糊は今まで食い散らかしたものなのか、毒に犯され吐き出した自分のものなのか、もはや区別がつかない。
足取りはどんどん重く、目は霞んでいく。
そして――次に踏み出した足の先に、地面は無かった。
「っ……」
浮遊感に包まれた体は、次の瞬間冷たい水に叩き付けられた。
川に落ちたのだと、理解することもできなかった。冷たさと息苦しさの中、静かに目を閉じる。
死にたくはなかった。でも。
これで終わるのかと、思ったのはそれだけだった。
……遠くから、声が聞こえる。
自分は死んだのだろうか。ここはどこだ。
でも声がするということは、まだ生きているのかもしれない。
よくよく聞けば、声の持ち主は一人ではない。しかも、全員が焦っているようだった。
「……く、もっと……て来い」
「……いじょうぶか、おい……お……」
呼ばれている、のだろうか?
意識はだんだんとはっきりしてくるが、まだ目が開かない。
どこか動かせるところはあるだろうか、そう思って試みると右手がピクリ、と動いた。力を込めるとそれは持ち上がり、何かに当たる。特に考えることもなくそれを掴むと、とても温かかった。
その時、ふと目が開いた。
最初は眩しいほどの光に視界が塗り潰され、すぐ閉じる。もう一度ゆっくりと瞼を上げると、複数の顔が見えた。どうやら自分の体は地面に横たえられ、覗き込まれているらしい。先程掴んだのは、その中の一人の腕だった。
――ああ、自分はまだ生きているんだな。
「意識が戻ったぞ!」
「君、大丈夫か!?」
「……」
口を開いたが、まだ声は出てこない。仕方なく微かに頷くことで返事を返し、起き上がろうとする。
「だめだ、まだ無理するな」
しかしすぐに肩を掴まれ、再び横にされた。上体を起こそうとしてずれた毛布が引き上げられ、肩まで包まれる。
それは冷えきった体を温めるために、彼らが用意してくれたようだった。素直に感謝する。
と、ここで彼らがやけに大きく見えることに気付いた。それによくよく見れば、視界に映る自分の腕がおかしい。いつも見慣れた、骨張りごつごつしたそれではなくなっていた。
近くに大人の男達がいるからなおさらよくわかる。ひどくか細い……どう見ても、幼い少年の腕だ。
だが焦ることはなかった。おそらく生体機能を維持しようと、無意識に体を変化させた結果だ。小さくなった方が負担がかからないと判断したのだろう。今回のようなことは初めてだが、そういう『能力』が彼にはあった。
もちろんそれだけが要因ではなく、最終的にはこうして人に助けられたことで命拾いしたのだろうが。
そんな風に状況を分析していると、不意に声をかけられた。
「君、溺れたときの状況とか、覚えてる?」
「……わか、らない」
本当は覚えている。でも言ったところで信じてはもらえないだろうと、しらを切ることにした。
「自分の名前とか、わかる?」
「カ……」
『名前』は無い。しかしいつの間にかつけられた『通称』はあった。
それを名乗りかけて、そういえばこの国の国色には合わないなと口をつぐむ。
「カ?」
「カ……オ、ル。カオル」
遠い昔の記憶から引っ張り出してきた仮の名前。たまたま頭の文字が同じだったため、誤魔化すのにもちょうどよかった。
それでも、彼はこの日から『カオル』になった。
某日、推定五~六歳の少年『カオル』が川に転落し、溺れていたところを保護された。彼には、名前以外の記憶が無かった。
男は、こうして生き延びた。