第6話:左手で掬う、奇跡の雫
「……眠って、しまわれたのですね」
静まり返った食堂。月光が銀の糸のように差し込み、私の膝の上で眠るゼフィロス様の髪を白く光らせています。
先ほどまでの激しい魔力の奔流が嘘のように、今の彼は穏やかで、まるで長い旅路の果てにようやく宿を見つけた旅人のよう。
私はそっと、彼の右手に触れました。
まだ熱を帯びたままの包帯。けれど、肌を這い回っていたあの黒い呪紋は、今は影を潜めています。
私の木ベラ――母の形見が、彼の中にある「欠落」を埋めようとしている。
王国では「おままごとの道具」と笑われたこの一本が、今、この偉大な皇帝の命を繋いでいる事実に、鼻の奥がツンと熱くなりました。
(どうして……気づかなかったのでしょう)
私が木ベラを振るうたび、スープに虹色の加護が宿り、大地が息を吹き返していたことに。
王国の冷たい床に突き飛ばされるまで、私は自分の力を「誰でもできること」だと信じ込まされていました。
ジュリアン様も、フィオナも。私の献身を当然の権利のように搾取し、いらなくなればゴミのように捨てた。
けれど、この方は――。
「……ん」
微かな声と共に、ゼフィロス様の長い睫毛が揺れました。
湖のような瞳がゆっくりと開かれ、私を見つめます。その瞳には、寝起きの無防備さと、隠しきれない独占欲が混ざり合っていました。
「……夢では、なかったか」
「陛下……。お目覚めになられましたのね」
「ああ。十年ぶりに、羽毛に包まれているような深い眠りだった。エリアナ、お前は……私のために、ずっとここにいてくれたのか?」
彼は起き上がると、私の頬をそっと左手で包み込みました。
右手の包帯を気にされているのか、彼はいつも左手で私に触れます。その不器用な優しさが、愛おしくて。
「どこにも、行きませんわ。私は、料理人ですもの。お腹を空かせた方を残して、厨房を離れるわけにはまいりません」
「……料理人としてだけか?」
彼の瞳が、私の唇をなぞるように動きます。
至近距離で見つめられ、私の心臓が、まるで鐘のように騒ぎ始めました。
彼はそのまま、私の目尻に溜まっていた小さな雫を、親指でそっと掬い取りました。
「お前の涙は、どんな宝石よりも美しい。だが、私の前で流すのは『喜び』の時だけにしておけ。……他のすべての苦しみは、私が食い尽くしてやろう」
彼の指先が触れた場所から、火花が散るような熱が広がります。
ゼフィロス様は、その「雫」を掬った左手の指を、自らの唇に当てて。
「……甘いな。お前のすべてが、私を狂わせる」
甘い、囁き。
王国で聞いたどんな愛の言葉よりも重く、熱く、私の魂を拘束していく。
私は彼を救っているつもりでしたが、本当は、私の方こそ。
自分の価値を見失っていた私が、彼に「必要だ」と言われることで、ようやく息を吹き返していたのです。
けれど、その至福の静寂を破るように、重々しい扉が叩かれました。
「失礼いたします。……陛下、火急の報せにございます」
入ってきたのは、侍女長のセリーナさんでした。
彼女の眼鏡の奥の瞳は、これまでにない険しさを帯びています。
ゼフィロス様は一瞬で皇帝の顔に戻り、私を背に隠すようにして立ち上がりました。
「……何だ。今は、誰の邪魔も許さぬと言ったはずだぞ」
「申し訳ございません。ですが、国境に王国の特使が参っております。……ヴェスタ公爵家と、王太子ジュリアン連名の『親書』を携えて」
その名を聞いた瞬間、私の指先が凍りつきました。
セリーナさんは、手元にある書簡を冷徹な声で読み上げます。
『――エリアナ・フォン・ヴェスタは、王国の国家機密である調理魔術を盗み出した大罪人である。身柄を速やかにこちらへ引き渡せ。さもなくば、これを帝国による宣戦布告と見なす』
「……なんですって?」
あまりの無知、あまりの厚かましさ。
私を「無能」と呼び、雪山に捨てたのは彼らの方ではありませんか。
それが、私がいなくなって数日で「国家機密」などと呼び、あろうことか帝国に脅しをかけるなんて。
「……ククッ、ハハハハハ!」
沈黙を破ったのは、ゼフィロス様の地を這うような笑い声でした。
その背中から、恐ろしいほどの殺気が溢れ出し、食堂の空気がパキパキと凍りついていきます。
「面白い。あのゴミ屑ども……、私の『心臓』を盗んだ大罪人だと宣ったか。……セリーナ、特使をこれ以上一歩も帝国へ入れるな」
彼は振り返り、怯える私を、包帯を巻いた右手で力強く引き寄せました。
その包帯からは、今や赤黒い殺気が漏れ出しています。
「エリアナ。案ずるな。お前を捨てた報いがどれほどのものか、あいつらの骨の髄まで教えてやろう。……帝国に宣戦布告をしたことを、地獄の底で後悔させてやる」
陛下の冷たい笑み。
それは、私のための、最高に苛烈な愛の誓い。
一方、王国の王宮では。
食卓に並んだ豪華な料理が、ジュリアン様が口にするそばから真っ黒に変色し、腐臭を放っていました。
「ぐっ、ああああ! 水だ! 水を持ってこい! なぜだ、なぜ味が……光が消えていく……!? エリアナだ……エリアナを連れてこい! あいつがいれば、こんなことには……っ!」
かつての「主」たちの悲鳴が、帝国まで届きそうなほどに響き渡ります。
けれど、その声はもう、陛下の腕の中にいる私には、ただの風の音にしか聞こえないのでした。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございますわ!
陛下……! 自分の左手で掬った雫を……なんて、もう、エロスと独占欲が渋滞しておりますわ!おーっほっほっほ!
エリアナもようやく、自分が「どれほど必要とされているか」を肌で感じ始めましたわね。
そして、ついに現れた王国の厚かましすぎる「返還要求」。
「宣戦布告」なんて言葉、皇帝陛下の前で口にするなんて……。
おーっほっほ! これが本当の『自爆』ですわ!
次回、王国の使者を陛下がどう「おもてなし」するのか。
そして、エリアナが帝国で初めて、公の場でその『祝福』の腕前を披露する夜会が始まります。
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