第3話:黒の離宮と、氷の皇帝の独占欲
視界を埋め尽くしていた白銀の世界が、いつの間にか重厚な漆黒へと変わっていた。
私がゼフィロス様の腕の中で微かに目を開けると、そこには天を衝くような漆黒の尖塔が、三日月を背景にそびえ立っていた。
「……ここが、私の居城『黒の離宮』だ」
彼の低い声が、胸の奥まで響く。
帝国――。王国では「野蛮な怪物の国」と教えられてきたけれど、目の前に広がる光景は、そんな偏見を吹き飛ばすほどに荘厳で、静謐な美しさに満ちていた。
巨大な城門が、重々しい音を立てて開く。
そこには、整列した騎士たちと、息を呑んで控える大勢の使用人たちが待ち構えていた。
彼らは一様に、主君の帰還を待っていたはずだった。けれど、その腕にボロボロの綿入れを着た、泥まみれの女が抱かれているのを見て、場は凍りついたような静寂に包まれた。
「陛下……? その……腕の中の者は、一体……」
年嵩の文官らしい男性が、震える声で問いかける。
無理もありませんわ。私は今、自分の身なりを想像するだけで顔から火が出そうですもの。髪は乱れ、頬には汚れ。一方でゼフィロス様は、乱れぬ所作で私を抱いたまま、氷よりも鋭い視線でその男を射抜いた。
「私の命を繋ぎ止めた者だ。異論があるか?」
「ひっ……! い、いいえ、滅相もございません!」
その一言で、周囲の疑問はすべて恐怖とともに飲み込まれた。
ゼフィロス様は私を降ろすことなく、大理石の床を堂々と歩んでいく。
すれ違う騎士たちが、見たこともないような緊張感を持って私と陛下に膝を突く。その一人一人が、王国のエリート騎士たちよりも遥かに強力な魔力を帯びているのが、肌を刺す感覚でわかった。
(この国は……なんて、力に満ちているのかしら)
王国にいた頃は、私の「祝福」が絶えず空気を浄化していたから気づかなかった。けれど、ここでは魔力が濃密に渦巻いている。私の指先にある木ベラが、その魔力を吸い込むように、わずかに熱を帯びた。
「おい。最高級の湯を用意しろ。それから、大陸で最も美しい絹の着替えを。一分でも遅れれば、この城のすべての湯を凍らせてやる」
陛下が放つ命令は、あまりに苛烈で、けれど迷いがなかった。
彼は私を、城の最上階にある、王族以外は立ち入りを禁じられているはずの豪華な寝室へと運び入れた。
天蓋付きのベッド。足首まで埋まる毛足の長い絨毯。そして、香油の香りが漂う広大な浴室。
「ここで汚れを落としてこい。お前の肌に付いた泥は、この国の宝石を磨く布よりも価値がある。……これ以上、一刻も不快な思いをさせるな」
陛下はそう言うと、私の手をそっと握った。
その時、私は見てしまった。彼の右手に巻かれた黒い包帯が、一瞬だけ不気味に脈動したのを。
「陛下……右手は、お怪我をされているのですか?」
「……お前が気にすることではない。これは、神に逆らった対価に過ぎん」
彼は、初めて私から視線を逸らした。
その横顔に、私は先ほどのスープを飲んだ時のような「孤独」を感じてしまう。
浴室へ促された私は、現れた侍女たちによって、まるで宝石を扱うように丁寧に、けれど迅速に磨き上げられていった。
王国の公爵家ですら見たこともないような、薔薇の雫を煮詰めたような入浴剤。最高級の蜂蜜を混ぜた石鹸。
「……お嬢様。信じられませんわ」
私の体を洗っていた若い侍女が、呆然と呟いた。
「泥の下から、これほど美しい、透き通るようなお肌が現れるなんて。まるで……世界中の光を集めて練り上げた真珠のようです」
磨かれ、整えられ、そして着せられたのは、帝国の象徴である漆黒に、繊細な銀糸で月光を刺繍したような絹のドレス。
鏡の中にいたのは、つい数時間前、泥の中で震えていた「無能な令嬢」ではなかった。
誇り高く、気高く、そして愛されるために生まれてきたような、一人の女性。
(これが……私?)
自分でも信じられない変化に戸惑っていると、浴室の扉が叩かれた。
「失礼いたします、陛下のお呼びです。……そして」
入ってきたのは、眼鏡の奥に理知的な、けれど一切の感情を感じさせない瞳を宿した一人の女性だった。
隙のないメイド服。凛とした立ち振る舞い。
「本日よりエリアナ様の身の回りのお世話を担当させていただきます。侍女長のセリーナと申します」
彼女は私を一瞥した。
その視線は鋭く、まるで私の魂の重さを測っているかのよう。
「陛下がこれほどまでに執着される御方が、どのような『味』をお持ちなのか……。しっかりと見定めさせていただきますわ」
彼女の言葉に、わずかな刺を感じて、私は背筋を伸ばした。
帝国は、王国よりも厳しい。けれど、この手には、まだあの木ベラがある。
「陛下がお待ちです。厨房もすでに、あなたの望むままに整えておりますわ。……さあ、世界で最も飢えた皇帝の胃袋を、どう満たしてくださるのかしら?」
セリーナさんの言葉と共に、私は広大な食堂へと導かれた。
そこでは、ゼフィロス様が、冷たい月光を背に受けて座っていた。
彼と視線が合った瞬間。
皇帝の瞳に宿ったのは、狂おしいほどの「期待」と、獲物を決して離さないという「独占欲」だった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございますわ!
泥まみれのエリアナが、帝国の魔力と贅を尽くした手入れで「真珠の美しさ」を取り戻すシーン……書いていてワクワクが止まりませんでしたわ!
でも、陛下、まだ着替えたばかりの彼女をそんなに熱い目で見つめて……。
さて、次回はついに帝国での「最初のご飯」!
侍女長セリーナの冷徹な眼鏡が、エリアナの料理でどう曇ってしまうのか(笑)、どうぞお楽しみに!
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