第21話:王国の密偵が見た、地上の楽園と絶望の対比
「……ああ、なんということ。この汚らわしい臭いは……!」
帝都の市場広場。そこは今、阿鼻叫喚の地獄へと変貌していました。
王国の間者が放った『腐敗の瘴気』が、どす黒い霧となって石畳を這い回り、逃げ惑う民衆を飲み込んでいます。瘴気を吸い込んだ人々は、味覚を狂わされ、道端の泥を「ご馳走だ」と叫んで啜り、あるいは家族を「腐った肉だ」と罵って殴り合う――。
料理人として、これほど不愉快な光景が他にあるかしら。
私はゼフィロス様の腕に抱かれ、空飛ぶ魔導馬車からその惨状を見下ろしていました。
「エリアナ、降りるな。……これはお前を誘い出すための罠だ」
ゼフィロス様の声は、氷の楔のように冷たく、私の腰を抱く手には、骨が軋むほどの力が込められています。彼の右手は今や、包帯の下で抑えきれない殺意を剥き出しにし、周囲の空気を凍らせていました。
「罠だと分かっていて、背を向けるのは料理人の名に傷が付きますわ。……陛下、私をおろして。……あんな泥水を啜らせるために、私はこの国に来たのではありませんもの」
私は彼の手を優雅に、けれど断固として振り解き、バルコニーから飛び降りました。
ふわり、と漆黒のドレスが夜風に膨らみ、私の手の中には、あの煤けた木ベラが黄金の光を帯びて現れます。
「おーっほっほっほ! 不味い食事に飽き飽きしている皆様! 今すぐその泥をお捨てなさい! 本物の『祝福』がどのようなものか、この私が教えて差し上げますわ!」
私が着地したのは、広場の中央にある巨大な噴水の前。
私は迷わず、あの『太陽の聖剣』を天高く掲げました。
「開け、大地の鍋! 湧け、浄化の雫!」
聖剣を噴水の水面に突き立てると、噴き上がっていた水が、一瞬で透き通ったコンソメスープのような黄金色へと変質しました。
さらに私は、木ベラをその水面に浸し、大きく円を描きました。
「灰色の森の果実を、魂の出汁に。……帝国の太陽を、慈愛のスパイスに。……吹き荒れなさい、私の『おもてなし』! ――祝福の香風!!」
次の瞬間、黄金の噴水から、目に見えるほどの「光の粒子」を含んだ湯気が爆発的に噴き上がりました。
それはただの湯気ではありません。
焼きたてのパンの香ばしさ、熟したリンゴの甘み、そして心を芯から温めるジンジャーの刺激――。
五感を支配する至高の香りが、暴風となって広場を駆け抜け、あのどす黒い瘴気を、まるで汚れた雑巾を絞るように一掃していったのです。
「……はっ!? 私、一体何を……」
「泥が……泥の味がする……。ああ、なんてことだ!」
正気に戻った民衆たちが、次々とその場に泣き崩れました。
私は微笑みながら、噴水から溢れ出る黄金のスープを、手近な樽や器ですくい、一人一人へと配り始めました。
「さあ、召し上がれ。……お腹が空いていると、悪い夢を見やすくなりますわ。……このスープを一口飲めば、貴方たちの魂に、私が『春』を届けて差し上げます」
人々は、震える手でスープを口に運びました。
一口。たった一口で、彼らの頬に薔薇色の赤みが差し、瞳には命の輝きが戻ります。
「美味しい……。ああ、なんて温かいんだ……」
「エリアナ様……! 女神様だ! 王国から来た魔女だなんて言った奴は誰だ! この御方こそ、帝国の聖母ではないか!」
広場を埋め尽くす「エリアナ様!」という称賛の嵐。
かつて私を「他国の女」と冷たく見ていた民衆が、今は私のドレスの裾に触れようと、涙を流して跪いています。
その様子を、物陰から血の出るような思いで見つめる男がいました。
王国の密偵、ギルバート。
彼は、ジュリアンから「帝都を地獄に変え、エリアナを魔女として処刑させろ」という命を受けていました。けれど、目の前の光景は、地獄などではありません。……ここは、彼女を中心とした、動かしがたい『楽園』。
(……馬鹿な。瘴気すらも出汁にするというのか。……この女、やはり人間ではない)
ギルバートは震える手で、懐から最後の手紙を取り出しました。
それは、ジュリアンへ宛てた、絶望の報告書。
『殿下……もう手遅れです。エリアナ様は、もはや帝国の心臓となりました。彼女に触れようとすれば、この国の万民が牙を剥くでしょう。……それに、彼女が振るうあの木ベラ。……あれはもはや調理器具などではない。……世界を再定義する、神の指先です』
ギルバートが手紙を書き終えた瞬間、彼の背後に、音もなく巨大な影が落ちました。
「――お前か。……私のエリアナの食卓を、汚そうとしたゴミは」
振り返ったギルバートの視界に入ったのは、片腕の包帯を完全に解き、赤黒い魔力を指先から滴らせる、憤怒の皇帝の姿。
「ひ……っ……あがっ……!!」
悲鳴すら許されず、ギルバートの体は一瞬で氷の柱へと閉じ込められました。
ゼフィロス様は、氷漬けになった密偵など存在しないかのように、私の方へと歩み寄ります。
その瞳には、民衆を救った私への誇らしさと、それを遥かに上回る、狂気じみた「執着」が渦巻いていました。
「エリアナ……。お前が民を救うたびに、私はお前を鎖で繋ぎたくなる。……世界がお前を崇めれば崇めるほど、私は世界そのものを滅ぼして、お前を私だけの密室に閉じ込めたくなるのだ」
「おーっほっほっほ! 陛下、そんな物騒な冗談は、このスープを飲み干してから仰ってくださいな」
私は彼に、一番大きなカップを差し出しました。
帝都に朝日が昇り始めます。
瘴気は晴れ、民は救われました。
けれど、王国の使節が密かに遺した『最後の手紙』の中には、まだ私たちが知らない「黒い種」の記述が、不吉に脈動していたのでした。
最後まで読んでくださって、ありがとうございますわ!
噴水の水をスープに変えてしまうエリアナ様……!
おーっほっほっほ! まさに「歩く救世主」ですわね!
瘴気を香りで吹き飛ばすシーン、わたくしも書きながらお腹が空いてしまいましたわ。
帝国の民衆が完全にエリアナ様の味方になった今、もう王国の姑息な手段は通用しませんわ。
でも、陛下……。「世界を滅ぼしてお前を閉じ込めたい」だなんて、
相変わらず愛が重すぎて、キュンが止まりませんわね。
密偵のギルバートさん、お疲れ様でした。氷の中でゆっくり反省なさい!
次回、第22話。
「陛下、そんなに食べさせては私の口が足りませんわ!」。
危機を乗り越えた後の、陛下による「ご褒美」という名の過剰給餌(溺愛)タイムが始まりますわよ!
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