第2話:氷の皇帝、十年ぶりの「春」を知る
「……狂っているのか」
低く、地を這うような声が吹雪の音を切り裂いた。
私の目の前に立つ「氷の皇帝」ゼフィロス様は、信じられないものを見るような目で私を見下ろしている。
無理もありませんわ。死にかけた女が、開口一番「お腹、空いていませんか」などと口にしたのですから。
「私は、今、死に損ないの小鳥に施しをしようとしたのだ。それをお前は、私を『もてなす』と言ったのか」
「料理番の……意地ですわ。お客様を、空腹のままお帰しするわけには……」
指先が震える。けれど、母から譲り受けた木ベラから伝わる熱が、私の心を折らせない。
私は震える手で、懐から小さな銀の小鍋を取り出した。追放される際、これだけはと持ち出した旅用の調理具だ。
私は雪を鍋に掬い、木ベラをその中に浸した。
「……何をしている」
「すぐ、沸きますわ」
本来なら火が必要だ。けれど、今の私にはわかる。
この木ベラに宿る「祝福」が、私の「誰かを温めたい」という願いに呼応しているのが。
じゅわ、と小さな音がして、雪が瞬く間に透き通った湯に変わる。
そこに、ドレスの隠しポケットに忍ばせていた、乾燥させた薬草と数粒の塩、そして――屑肉の干物。
それはヴェスタ公爵家の厨房で、捨てられるはずだった端切れを私がこっそり加工しておいたもの。
木ベラで一回、二回と円を描く。
ただそれだけのこと。なのに。
立ち上る湯気が、奇跡のように黄金色の輝きを帯び始めた。
香りが、凍てついた空気を塗り替えていく。
滋養に富んだ肉の旨味、野生のハーブの爽やかな苦味、そして、火を通したばかりの太陽のような温かな匂い。
「……くっ」
ゼフィロス様が、短く息を呑む音が聞こえた。
彼は十年、何を食べても「砂の味」しかしなかったと言った。それはきっと、この世界そのものから拒絶されているような、孤独な呪い。
「どうぞ。……お口に合えば、よろしいのですけれど」
私は意識が遠のきそうになるのを必死で堪え、小鍋を彼に差し出した。
ゼフィロス様は、忌々しげに私を睨みつけながらも、抗いがたい力に引かれるようにその鍋を受け取った。
彼は優雅な動作で、黄金のスープを一口、口に含み――。
刹那、世界から音が消えた。
彼の長い睫毛が大きく震える。
凍てついた湖のようだった瞳が、見開かれ、驚愕に染まっていく。
「……あ」
彼の喉が動く。
スープが、彼の体の中へ滑り落ちていく。
その瞬間、ゼフィロス様の頬に、微かな赤みが差したのを私は見逃さなかった。
「……味が、する」
それは、震えるような囁きだった。
「砂ではない。これは……温かい。肉の、脂の甘み……。草の、青い香り……。ああ、熱い。腹の底から、血が巡る音がする……!」
彼は夢中で二口目、三口目とスープを煽った。
あんなに冷酷だった皇帝陛下が、まるで初めて火を知った子供のように。
やがて空になった鍋を見つめ、彼は信じられないものを見たように私を凝視した。
「……お前、名は」
「エリアナ……・フォン・ヴェスタ……ですわ」
「エリアナ」
私の名を呼ぶ彼の声が、先ほどまでの冷徹さを失い、熱を帯びた執着に変わっている。
彼は膝を突き、倒れそうになる私の肩を強く抱き寄せた。
「お前が何者かはどうでもいい。だが、今この瞬間、お前は私の『唯一』となった」
「え……?」
「この十年、私は生きていながら死んでいた。食うことの叶わぬ日々が、私を怪物に変えた。……だが、今、お前の料理が私の呪いを黙らせたのだ」
彼の右手――包帯でぐるぐる巻きにされた腕が、私の頬に触れる。
熱い。火傷しそうなほどの熱量。
彼は私の瞳を覗き込み、逃がさないと言わんばかりに低い声で告げた。
「お前を捨てた国など、もうどうでもいい。今日からお前は、私の心臓だ」
「陛下……?」
「私の厨房で、私のためだけに火を灯せ。……誰にも、一滴たりとも分け与える必要はない」
ああ。
この方は、きっと私以上に「飢えて」いらしたのだわ。
深い孤独と、誰にも理解されない欠落。
私の小さな料理が、この偉大な皇帝の魂を繋ぎ止めてしまった。
ゼフィロス様は私を軽々と横抱きにすると、広大な雪原の先、彼方に見える黒い城――帝都へと歩き始めた。
「待って、ください……私の、荷物が……」
「そんなゴミは捨てておけ。お前に必要なものは、すべて私が用意する。宝石も、ドレスも、世界一の厨房もだ」
彼の腕の中は、吹雪の中でも驚くほど温かかった。
王国に捨てられた私が、隣国の「氷の皇帝」のたった一人の救いになるなんて。
けれど、この時の私はまだ知らなかった。
私が帝国で鍋を振るい始めたその瞬間、私を捨てた王国から「光」が失われ、あの愚かな王太子たちが本当の『飢え』にのたうち回ることになるのを。
最後まで読んでくださって、ありがとうございますわ!
ついに陛下の「味覚」が目覚めましたわね!
十年ぶりのスープ、それは彼にとってどんな宝石よりも価値のあるものだったはず。
「お前は私の心臓だ」なんて……陛下、まだ2話目なのに愛が重すぎますわ!おーっほっほっほ!
さて、次回からは舞台を帝国の宮廷へと移します。
エリアナを待つのは、豪華絢爛な生活か、それとも新しい波乱か……。
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