第5話 三人の食卓
朝の匂いで、ミアは目を覚ました。
知らない天井。
木の梁。
白い布のカーテン。
――逃げなきゃ。
反射的に体を起こしかけて、止まった。
柔らかい毛布が肩から滑り落ちる。
温かかった。
怖い夢を見なかったことに気づくまで、少し時間がかかった。
「……あ」
思い出す。
森の宿。
優しい声の少女。
怖くない大人。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
それと同時に、不安も戻ってきた。
――まだ、ここにいていいの?
恐る恐る部屋を出る。
廊下には朝の光が満ちていた。
台所から音がする。
覗くと、アレンが真剣な顔でフライパンと戦っていた。
「……なんで焦げるんだ」
黒くなりかけた卵を前に唸っている。
ミアは思わず声を出した。
「それ、火つよすぎ」
アレンが振り向く。
「お、起きたか」
驚かせないよう、少し離れたまま笑う。
その距離感が絶妙だった。
「料理、できるのか?」
「……ちょっと」
「助けてくれ」
即答だった。
ミアは戸惑いながら近づく。
怒鳴られないか、失敗しても責められないか、無意識に身構えながら。
「火、弱くして」
「こうか?」
「うん」
アレンは素直に従った。
それが意外だった。
大人は普通、子供の言うことを聞かない。
ミアは木べらを持ち、卵をゆっくり混ぜる。
じゅう、と優しい音。
さっきまで暴れていた油が落ち着く。
「……できた」
「おお」
アレンが感心した声を出す。
その反応に、ミアは少し照れた。
そこへリノが戻ってきた。
外から薪を運んできたらしい。
「いい匂いですね」
「ミア先生のおかげだ」
アレンが言うと、ミアは慌てた。
「せ、先生じゃない!」
リノは小さく笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
三人で食卓を囲む。
パン、卵、スープ。
豪華ではない。
けれど湯気が立ち、皿が三つ並んでいる。
ミアはそれをじっと見つめた。
「……どうしました?」
リノが尋ねる。
「……三つある」
「はい」
「わたしのも、ある」
当たり前のことを確認するように言う。
リノは頷いた。
「宿泊客ですから」
理由が与えられる。
情けではなく、規則として。
それがミアを安心させた。
食事が始まる。
最初は静かだった。
だがアレンがパンを落とした瞬間、空気が少し変わる。
「あ」
床へ転がるパン。
ミアが吹き出した。
「なにやってんの」
「今のは床が悪い」
「床のせいにしないで」
思わず言い返してから、ミアは口を押さえた。
怒られると思った。
だがアレンは笑っていた。
「反論できるようになったな」
その言葉に、胸がくすぐったくなる。
食事の音が続く。
スプーンが皿に当たる音。
パンをちぎる音。
誰かと食べる、という当たり前。
ミアは気づいた。
ここでは、急いで食べなくていい。
奪われない。
怒鳴られない。
追い出されない。
――少なくとも、今は。
「……ねえ」
ミアが小さく言う。
「三日たったら、どうなるの?」
静かな問いだった。
アレンの手が止まる。
リノは少し考えてから答えた。
「行きたい場所へ行きます」
「なかったら?」
リノは窓の外を見た。
森の光が揺れている。
「探しに行きます」
簡単な答え。
けれど強制しない響き。
ミアは俯いた。
「……また、こわくなったら?」
その問いは、未来への恐れだった。
リノは少しだけ首を傾ける。
「その時は、思い出してください」
「なにを?」
「ここで食べた朝ごはんを」
ミアは目を瞬かせた。
あまりにも小さな答え。
でも――なぜか泣きそうになる。
アレンは黙ってスープを飲んだ。
分かっていた。
この宿は人生を変えない。
代わりに、戻るための場所をくれる。
それだけ。
それだけなのに、十分だった。
食事が終わる頃。
窓辺の灯りが、また一つ強く光った。
淡い紫色。
昨日より、少し安定している。
ミアは気づいていない。
だがアレンには分かった。
――灯りは、心の形なんだ。
外では風が森を渡る。
三人分の食器が並ぶ食卓は、もう少しだけ賑やかになっていた。




