第3話 眠れないはずの夜
その夜、アレンは眠れなかった。
――眠れるはずがない。
そう思っていた。
昼間、何度もうたた寝をしたせいではない。
静かすぎたのだ。
森の夜は、恐ろしいほど音がない。
虫の声さえ遠く、風も枝を揺らすだけで終わる。戦場の夜とはまるで違った。あちらでは常に誰かの気配があり、見張りの足音や武具の擦れる音が絶えなかった。
静寂は、警戒すべきものだった。
だがここでは――
静寂が、ただそこにある。
アレンは寝台の上で天井を見つめていた。
眠ろうとすると、思い出が浮かぶ。
剣を振るった感触。
倒れていった魔物。
仲間の叫び声。
そして、魔王城の最後の光景。
終わった瞬間、胸の中が空洞になった感覚。
「……くそ」
小さく舌打ちする。
身体は休んでいるのに、心だけが走り続けている。
いつものことだった。
戦いが終わってから、まともに眠れた夜はほとんどない。
目を閉じれば、夢が来る。
夢は決まって戦場だった。
だから彼は眠ることを避けるようになっていた。
――だが。
ふと、香りがした。
甘くもなく、強くもない。
草と木と、少しだけ陽だまりの匂い。
アレンは身を起こした。
扉の隙間から、橙色の光が揺れている。
廊下の灯りだった。
足音を忍ばせ、部屋を出る。
床板はほとんど音を立てない。
暖炉には新しい薪がくべられ、小さな火が静かに燃えていた。
そして窓辺。
そこに、灯りが並んでいた。
昨日は一つしかなかったはずのランプが、いくつも置かれている。
色も形も違う。
青みがかった光。
柔らかな金色。
淡い緑。
まるで小さな星が地上に降りたようだった。
「……なんだ、これ」
近づくと、不思議なことに胸の奥が温かくなる。
理由は分からない。
ただ、安心する。
「眠れませんか」
背後から声。
振り向くと、リノが立っていた。
寝巻き姿のまま、眠そうでもなく、ただ静かに。
「起こしたか?」
「いいえ。灯りが揺れたので」
「灯り?」
リノは並ぶランプを見た。
「眠れない人がいると、少し強く光るんです」
「……は?」
意味が分からない。
だが冗談を言っている顔ではなかった。
アレンはランプを覗き込む。
炎は入っていない。
なのに光っている。
「魔法か?」
「たぶん」
「たぶん?」
「詳しくは知りません」
さらりと言う。
「この宿、昔からこうなので」
説明になっていない。
けれど不思議と納得してしまう。
ここでは、理由がなくても物事が成立していた。
アレンはランプの一つへ手を伸ばした。
触れた瞬間、胸に映像が浮かんだ。
笑っている誰か。
泣きながら出ていく背中。
深く頭を下げる老人。
――知らない人たちの記憶。
思わず手を離す。
「今の……」
「置いていった灯りです」
リノが言う。
「ここに泊まった人が、出発の日に残していきます」
「なんで?」
「次の人が、少し楽になるように」
アレンは黙った。
ランプの光が揺れる。
それは火ではなく、感情のようだった。
「……俺も、置いてくのか」
「置きたければ」
義務ではない。
ただの選択。
アレンはしばらく灯りを見つめた。
「ここさ」
「はい」
「変だな」
「よく言われます」
リノは少しだけ笑った。
ほんのわずかな変化だった。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その音を聞いているうちに、アレンの肩から力が抜けていった。
気づけば、まぶたが重い。
「……なんだこれ」
「眠いですか」
「ああ……急に」
「眠ってください」
リノの声は、命令でも誘導でもない。
ただの許可だった。
それだけで、抗う理由が消える。
アレンは長椅子に腰を下ろしたまま、目を閉じた。
夢を見る予感があった。
だが怖くなかった。
灯りの光が、ゆっくり揺れる。
まるで誰かが見守っているように。
その夜。
アレンは久しぶりに、戦場ではない夢を見た。
内容は思い出せない。
けれど目覚めた時、胸の奥に残っていたのは――
痛みではなく、懐かしさだった。
窓の外では、夜が静かに明け始めていた。




