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世界のはしっこ、灯りの宿  作者: あめとおと


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第2話 勇者をやめた朝



 朝は、鳥の声ではじまった。


 高くもなく、澄みすぎてもいない、小さな囀り。


 青年はゆっくり目を開けた。


 知らない天井だった。


 木の梁。柔らかな光。暖炉の灰はすでに冷え、代わりに窓から差し込む朝日が部屋を満たしている。


 ――生きている。


 昨夜と同じ感想が、胸の奥に浮かんだ。


 体を起こすと、驚くほど軽かった。


 長い旅の疲労も、戦い続けた身体の軋みも、嘘みたいに薄れている。


「……なんだ、ここ」


 呟いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 扉の向こうから、包丁の音が聞こえる。


 一定のリズム。


 急がない音。


 青年は立ち上がり、少し迷ってから扉を開けた。


 昨日の少女――リノが台所に立っていた。


 窓を開け放ち、朝の風を入れている。鍋からは湯気が上がり、焼きたてのパンの匂いが部屋に満ちていた。


 彼女は振り向かないまま言う。


「起きましたか」


「あ、ああ」


 まるで分かっていたかのような声だった。


「体調は」


「……いい。信じられないくらい」


「そうですか」


 それだけ言って、また野菜を刻み始める。


 会話が続かない。


 けれど気まずくもなかった。


 青年は椅子に座り、しばらくその背中を眺めていた。


 戦場では、沈黙は常に緊張だった。


 命のやり取りの前触れ。


 だがここでは違う。


 沈黙が、ただの沈黙として存在していた。


 それが妙に落ち着かなかった。


「……昨日」


 青年が口を開く。


「俺、何か変なこと言ってなかったか」


「勇者だった、と」


 即答だった。


 青年は苦笑する。


「やっぱ言ってたか」


 逃げ場のない事実を確認したように、肩を落とした。


「信じるのか?」


「どちらでも」


「どちらでも?」


「ここでは、肩書きはあまり意味がないので」


 淡々とした言葉。


 責めも、敬意も、興味さえない。


 青年は少しだけ目を見開いた。


 世界中の人間が、勇者という言葉に反応した。


 称賛か、期待か、恐怖か。


 だが彼女は――何も乗せない。


「……楽だな、それ」


「そうですか」


 皿が置かれる。


 温かいスープと、焼いたパン。


「朝食です」


「もらっていいのか」


「三日間は」


 決まりだから、と言外に続く。


 青年はパンをちぎり、口へ運んだ。


 噛む。


 それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。


 戦場では味など分からなかった。


 勝つか死ぬか、それだけだったから。


「……久しぶりだ」


「何がですか」


「飯を食ってる感じがするの」


 リノは小さく頷いた。


 しばらく食事の音だけが続く。


 やがて青年がぽつりと言った。


「名前、聞かないのか」


「必要なら、話してください」


 強制しない声音。


 青年はスープを見つめたまま言う。


「アレン」


 短い名乗りだった。


「リノです」


 それで十分だった。


 肩書きも称号もない、ただの自己紹介。


 アレンは少しだけ笑った。


「……俺さ」


 言葉が自然に続く。


「魔王倒したあと、祝賀会とか山ほどあってさ」


 パンを握る手に力が入る。


「みんな笑ってた。王様も、貴族も、町の人も」


 声が静かに沈む。


「でもな、誰も俺に“明日どうする”って聞かなかった」


 リノは何も言わない。


 ただ聞いている。


「戦い終わった勇者って、ただの剣の上手いやつなんだよ」


 苦笑。


「平和な世界じゃ、邪魔なんだ」


 暖かな朝の光の中で、その言葉だけが冷たかった。


 長い沈黙のあと、リノが言う。


「この宿では」


 アレンが顔を上げる。


「何者でもなくて大丈夫です」


「……」


「三日間だけですが」


 制限があるからこそ、許される休息。


 アレンは目を閉じた。


 胸の奥で、何かがほどけていく。


「……三日か」


「はい」


「三日後、追い出す?」


「送り出します」


 言い方が少し違った。


 それに気づき、アレンは小さく笑った。


 外では風が草を揺らしている。


 戦いも命令もない朝。


 ただ食事をして、呼吸をしているだけの時間。


 それがこんなにも重く、そして優しいものだとは、彼は知らなかった。


 食事を終える頃、リノが言った。


「今日は、何もしなくていいです」


「……じゃあ?」


「眠くなったら寝てください」


 本気で言っている顔だった。


 アレンは吹き出しそうになり、でも笑えなくて、代わりに深く息を吐いた。


「……そうする」


 椅子にもたれ、目を閉じる。


 不思議と、不安がなかった。


 役目のない時間。


 戦わなくていい一日。


 それを許された気がした。


 窓辺の灯りが、昼の光の中でも微かに揺れていた。


 まだ消えない、小さな灯火のように。






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