表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界のはしっこ、灯りの宿  作者: あめとおと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

第1話 雨の夜の来訪者



 雨は、音もなく降っていた。


 森の奥では、強い雨ほど静かになる。


 葉が受け止め、土が飲み込み、世界そのものが眠りに入るように息を潜めるからだ。


 そんな夜にだけ、この宿は現れる。


 灯りの宿――と呼ぶ者もいるが、正式な名前を知る者はいない。


 小さな木造の建物は、森の開けた場所にぽつりと立っていた。看板もなければ、道標もない。ただ、窓辺に吊された橙色のランプだけが、迷い込んだ誰かを待つように揺れている。


 扉の内側で、少女はスープをかき混ぜていた。


 ことり、と木の匙が鍋の縁に当たる。


 香草と根菜の匂いが、静かに部屋へ広がった。


 少女――リノは、火加減を見ながら小さく頷く。


「……もう少し」


 誰に言うでもない言葉だった。


 この宿に客が来るのは、決まって突然だ。


 予兆はない。予約もない。


 ただ――必要な時にだけ、扉が叩かれる。


 その夜も、そうだった。


 コン、という音がした。


 弱い音だった。


 風かと思うほど控えめで、けれど確かに「助け」を含んだ音。


 リノは火を弱め、ゆっくりと扉へ向かった。


 急がない。


 この宿では、誰も急かされない。


 扉を開ける。


 冷たい雨の匂いが流れ込んだ。


 そして――


 一人の青年が、倒れ込むように中へ崩れた。


「……あ」


 短い声が漏れる。


 泥に汚れた外套。折れかけた剣。濡れた金髪は顔に張り付き、呼吸は浅い。


 旅人。


 いや、それよりも――


「……終わりかけてる」


 リノは静かに呟いた。


 命ではない。


 心のほうが。


 彼女は迷いなく青年の腕を肩に回し、室内へ引き入れた。見た目よりも力がある。慣れている動きだった。


 扉を閉めると、外界の音が消える。


 雨は、もう遠かった。


 青年を暖炉の前の長椅子へ寝かせ、濡れた外套を外す。


 剣が床へ落ち、鈍い音を立てた。


 装飾の剥げた勇者紋。


 かつては輝いていた証。


 リノはそれを見ても、表情を変えなかった。


「……お湯、先」


 桶に湯を張り、布を浸す。


 額の泥を拭くと、青年が微かに眉を寄せた。


 生きている。


 それだけで十分だった。


 しばらくして、彼の瞼が震えた。


「……ここ、は」


 掠れた声。


 焦点の合わない目が天井を探す。


 見慣れない木目。揺れる灯り。薪の弾ける音。


「宿です」


 リノは簡潔に答えた。


「……宿?」


「休む場所」


 それ以上の説明はしない。


 青年は理解できないまま、ゆっくり息を吐いた。


 そして、ぽつりと呟く。


「……俺、生きてるのか」


「はい」


「……なんで」


 その問いに、リノは少し考えてから言った。


「来たからです」


 意味の分からない答えだったが、青年は反論しなかった。


 反論する力がなかった。


 代わりに、目を閉じる。


 その瞬間、肩の力が抜けた。


 まるで――長い間、許されなかった休息を思い出したように。


 リノは鍋からスープをよそい、椅子を引いた。


「飲めますか」


 青年はゆっくり起き上がる。


 震える手で器を受け取った。


 一口。


 湯気と一緒に、息が漏れる。


 驚いた顔をした。


「……うまい」


 それは料理への感想というより、世界への確認のようだった。


 まだ温かいものが存在する、と。


 数口飲んだあと、彼はぽつりと言った。


「……俺、勇者だったんだ」


 過去形だった。


 リノは頷きもしない。


 ただ続きを待つ。


「魔王、倒してさ。世界、救って……」


 笑おうとして、失敗する。


「終わったら、誰も俺を必要としなかった」


 暖炉の火が小さく揺れた。


「戦ってる時だけ、意味があったんだなって」


 沈黙。


 雨音の代わりに、薪の弾ける音だけが部屋を満たす。


 リノは静かに言った。


「ここでは、何もしなくていいです」


「……え?」


「三日、休めます」


「三日?」


「この宿の決まりです」


 青年は理解できない顔をした。


「金、持ってない」


「いりません」


「……なんで」


 リノは少しだけ考えた。


 そして言った。


「必要だから来た人からは、もらわないことにしています」


 青年は長い間、何も言えなかった。


 やがて視線を落とし、小さく呟く。


「……もう、頑張れないんだ」


「はい」


 否定しない。


 励まさない。


 ただ、受け止める。


 それだけで、青年の目がわずかに潤んだ。


 彼は器を持ったまま、眠りに落ちた。


 スープを半分残したまま。


 リノはそっと器を取り、毛布をかける。


 暖炉の火を少し強めた。


 窓の外では、雨がやんでいた。


 森の奥、見えない道の先で、小さな灯りがひとつ灯る。


 新しい来訪者を導く光。


 リノはそれを見て、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……よく来ました」


 それは眠る青年へ向けた言葉であり。


 かつて、この宿に辿り着いた自分自身への言葉でもあった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ