風に揉まれし者〈2〉
夜明けの街を、背の高い男と、小柄な男が歩いている。夜明けとはいえ、辺りは真昼と同様に明るい。
ふたりの衣服には、黒い斑点が無数についている。
アズは、自身の体を不安げに抱いて歩いていた。今にも倒れそうな表情で、深い呼吸をひとつひとつ、大切そうにしている。
「あぁ……アスケル?」
「やめなさい。アズ、ですよ。少しの違いが足元を掬って……」
背の高い男がアズに声をかけると、間髪入れずにアズは静かに早口で訂正した。しかし最後まで言いきれず、眉をひそめて悲しそうに俯く。
男はもはや白にも見える薄い色の頭をかきむしりながら、やや呆れ気味に答える。
「はいはい、アズさんよ。……諸々、言うほど気にするこたぁないと思うぜ」
横目で様子を伺うが、アズは口をきゅっと結んでなにも言おうとしない。またため息をついて、男は言った。
「大丈夫。あの子は君より長く生きる」
アズを励ますように言う。それは自信に満ちているが、どこか含蓄のある物言いで、しかしさっぱりしている。
「むしろ、いつかそれで困ることがあるだろうな」
それでも、アズは黙ったまま歩いていた。男は諦めて、同じく黙って歩くことにした。
気持ちは、ゆっくりと溢れていった。男は、アズの前を歩いていたが、背後から嗚咽が聞こえるようになったのは目的地のごく近くであった。
「……アズ」
「ハル、私……大切な人を私欲で傷つけてしまって」
今あったことを正直に吐露する彼は、子供だった。その姿はあまりにいじらしく、ハルは少しだけ笑ってから、小さな体を高く持ち上げてやった。羽のように軽かった。
持ち上げられたアズは、突然のことに、泣き腫らした目で何度も瞬きをするばかりで、口を開けなかった。赤ん坊のように体に添えて抱いてから、ハルは言った。
「アズよぉ、少し強い言い方になるかもしれんがよぉく聞け。
ひとつ、どんなときでもその話し方をやめよう。俺らにはあんまり綺麗すぎる。ほら、モレの坊主の前ではできてたじゃないか、今もできるはずだ」
言い慣れた文句のようだった。そのことば自体ではなく、その言い様が、こなれた様子だった。見た目からは想像できないほど、この男は大人びている。というよりは、老人めいているのだろうか。
またゆっくり歩き出して、彼は続けた。
「ふたつ目だ。自分に非を覚えるんじゃないぞ。今までのお前さんの綺麗な生き方には反するかもしれんが……たとえ確かに自分に非があったとしても認めるな。ここからは俺らと生きるって決めたんなら、な」
ハルに抱かれて見る風景は、いつもより頭ひとつ、ふたつ分は高く、真新しいものに見えた。ハルは長い足を持て余しながら小さな歩幅でゆっくり歩いていて、鼓動に近いそれはアズを十二分に安心させる。
それでも、ハルの言ったそれは、勇気がいるものだった。綺麗な生き方をしていた自覚はなかったが、ハルとかの生き方に比べれば随分綺麗なものだろう。
視線の先、遠くをぼんやりと見ながら考えていた。ハルは、細い道を行く。曲がって、曲がって、道は徐々に細く、暗くなる。
「みっつ目。これがいちばん大事だ。とにかくな、笑え!」
途端、歯をむき出しにして笑顔を見せたハルに、アズはわっと声を出してしまった。その反応でさらに声に出して笑う彼を、アズはもとより丸い目を大きくして見ているしかできなかった。
ハルはひとりでしきりに笑ったあと、一旦落ち着いて、また愛おしそうに目を細めた。抱いた子の、幼く柔らかな頬の片方をつつき、肉を上へ寄せる。
「や、やめ……」
気に障ったのか、アズはちいさく抵抗するが、ハルは離さなかった。
「暗い顔して解決することなんか、俺の知る限りないからさ」
人の腕の中で少しく暴れた末に平衡感覚を欠いたアズをまた抱き直しながらハルは続ける。
「なにもかも考えすぎるな。俺らは気楽に、真剣に生きるのが仕事だ。そら、着いたぞ」
ひびの入った壊れかけの石が積まれた壁と、布でできたみすぼらしい市場のテントのようなものが見渡す限り立ち並ぶそこでは、夜明けの鐘もならないこの時間に、既に人々が動きはじめていた。
「きたないだろ、これでも俺らの立派な家だ」
アズは確かに絶句していた。ばたばたと足を動かして少しだけ顔を歪めたハルの腕から離れ、舗装されていない土の地面に足をつける。
まだ呆然と裏路地の街並みを見ているアズの外套を脱がせるのは容易く、ハルはその外套の裏地を見せるように折りたたむ。それからハルは自身の上着を脱ぎ、色の染みた薄いシャツ一枚になってしまったおかげで寒さに悪態を吐きながら、けれどその上着を同じように丸めた。
「寒くないか?」
「あ、えっと……大丈夫」
やや感傷的になっているようで、アズは自分の動悸に驚いた。ハルとは違って上着を着ているために寒さは大した問題ではなかった。ただ、このような街がこの国にあるとは露ほども知らず、自らの恵まれていた暮らしを思うと、暑さ寒さなどどうでも良いこととなり、なにも言えなくなってしまうのだ。
ハルは、そんな様子のアズを見て肩に入っている力を抜いてすとんと落とした。
「お前が生きて帰った暁に、ここいらのことも頭の片隅にあったら……」
力強く頷くアズを見て、考え直したようにハルはことばを濁した。
「まぁ、聞き流せ」
ふと気づけば、周囲には人が集まっていた。彼らはアズを指してハルに拉致か、誘拐か、などと聞く。
アズの風貌は、この街にはあまりに綺麗だった。切りそろえられた薄色の髪や、みずみずしい肌に傷や汚れは一切なかった。着ているものも古着ではあったが、やはり上等なもので街の人の興味をひいた。
「馬鹿言え。あんまりいじめるんじゃない」
声色はなにも変えていないが、ハルのことばで野次馬は収まった。人々は散り、アズの周りに静寂だけが集まって、背筋につぅと指が這ったような心地がした。
ハルは歩けるかをアズに尋ね、それから黙って先導しはじめる。周囲からの興味の目には慣れているつもりだったが、アズはどうも地面を踏ん張れないでいた。
今、私らの周りの空気のみが、少しだけ冷たい。
「アズ、おいアズ。しゃんと歩け」
ハルの語気が強い。ぼんやりと聞き、それから首を振って歩いた。
先程の彼は、自分の知っている彼だったろうか、そんなことを考えながらアズはただ、ハルについて歩いていた。
ハルの過ごす「家」もまた、みすぼらしい市場のテントのようだった。
生理的な嫌悪感が込み上げてきて、入り口ともいえないような入り口で立ち尽くしていたが、ハルは気にもしていない様子で言う。否、気にかけた上でやはり強く言うのだ。
「お前の家だ。入れよ」
そこはどこか、火の中、もしくは水の中を行く思いでアズは恐る恐る一歩を踏み入れた。
ハルは、けれど、アズの座るところに白い布を敷いていた。ここへ座れと言わんばかりに示す手に従って片膝を置いたときにアズの体はくずおれ、ハルの支えも足りず、お世辞にも綺麗とは言えない敷物に体を預けることとなった。アズがそこから動かなくなってしまったので、ハルはどうしたものかと顔を覗き込んだが、幼い彼は細い寝息を立てていた。
ハルはほうと息をついてから眠りについた彼の上等な上着を無理に取り、上からかけてやった。それからおもむろに自分のシャツを脱ぎ、腹のあたりの青痣を静かになぞった。