風に揉まれし者〈1〉
深い紫色の瞳に、金属の鈍い光が反射する。
少年はアズと名乗った。平民以下の薄い金髪は短く綺麗に切り揃えられていた。
寝台に腰掛けて、中指にはまる黄金の指輪を、オイルランプの光にかざしてじっと見つめていた。カーテンを閉め切った狭い部屋に光源はそれしかない。
もう一人、レオと名乗る少年は、向かいの寝台の前に立って就寝準備をしている。アズと同じ色の長い髪を、身の丈に合っていないように思われる小綺麗な櫛で梳かしている。ちらりとアズの様子を見たが、なにか言うこともなく自分の作業に戻る。
彼らふたりがこの屋敷で住み込みの使用人として下働きを始めてから一週間ほどが経つ。
「レオ」
指輪の凝視をやめて、アズはレオに向かった。
レオはなにも返さなかったが、髪を梳るのを中断し、アズの方に体を向ける。
「少し頼まれてくれないか」
レオはその黒々とした瞳を数回まぶたで隠してから言う。
「もちろん」
アズはその答えを聞いて少しだけ目尻を下げた。レオはその微笑でまた目を丸くする。彼は滅多なことでも笑わない。
「少し外に出ないか。散歩、のような……」
そう言っているアズは既に外套を羽織っていた。レオが提案を受ける以外の選択肢など存在してはいないようだ。
ほどなくして、屋敷の裏口より出るふたつの影があった。
日は真上から差しているが、時間はとっくに夜であるため、住宅のカーテンの開いているところは見当たらない。人通りもなく、寂しげな街を先導するアズは口を結んだままだった。レオもあまり話す性分ではないため、ふたり黙って街路を歩く。行くあてがあるのか、レオは知りたいが、上手く話を切り出せずにいる。つかつかと歩く彼はどこかへ向かっているような、自信のようななにかのもとで先を歩んでいるようだった。大きな街路から、脇道に入り、さらに小さな路地へ。迷路のように入り組んだ街を、ただ黙々と歩くのについていく。
レオは一本外れた道からずっと何者かがあとをつけていることに気づいてはいたが、先を行くアズが気づいていないはずがないと思い、なにも言わずにただ歩いた。
だんだん早足になる彼の後を追っていたが、やっと止まったとか思えば、アズは路地の終着に行き着いていた。そこはそそりたつ家々に囲まれて、影が濃い。
「ここ、行き止まり……なにかある、とか」
行き止まりの少し手前でアズは動かなくなった。ずっと後ろをついてきていたレオは心配になってやっと口を開いたが、アズの手前に回り、行き止まりに近づいてみてもその赤い石造りの壁に変哲はない。
アズの顔を覗き込むと、その紫眼はどこも見ていない上に、あまり高くはない鼻の頭が小さく震えている。
「ア、アズ……?」
正面に回ってアズの肩を掴んだとき、彼はなぜか嫌がるように一歩身を引いた。
レオが腹部の鈍痛に気づけたのはそのあとだった。体の性質上レオは痛みに対して全般的に鈍く、彼の思考のウェイトを多くは占めない。そのため、対応がかなり遅れてしまう。今回もそうだった。腹部の痛みに気づいたあと注意がそこに集中し、外れた道を追っていた人物であろう背後の人影を上手く退けることができなかった。
脇の下から腕を回されて自由が利かなくなりもがいてみせるが、人影は大人の男、それもかなり鍛えているのだろう、まだ体が発達途上であろうレオでは上手く引き剥がせない。
正面のアズは、レオの腹部を貫いている短剣の柄をしっかりと握っている。鍔が自らの厚い外套に当たっているから、刀身は完全に体内に納められているのだろう。アズの呼吸も荒かったが、レオは痛みよりも、自分を刺し貫いたのがアズだと信じられず、正面の加害者と同じように息を荒げた。呼吸は下手で頭に酸素が回らず、気をつけていたことにも配慮できなくなり思ったことを口走る。
「っ……で、殿下、なぜ……」
「おれを許すな」
声そのものは震えているようだが、彼は対話の余地を残さずに、アズとして言い放った。
レオが納得できるはずもなかったが、次のときには腹に刺さっていたはずの短剣は空を切っていた。アズがいつも護身のために持っている金色の短剣は、鮮血と共に陽光に照らされる。そして抜いた勢いのままその短剣はレオの左の脛を裂いた。
それとほぼ同時にレオは右足を軸に勢い良く一回転する。短剣は勢いに負けて妙な軌道を辿る。アズはうしろへ飛び退きその蹴りを免れたが、レオを拘束していた背後の男は腹にレオの左足が諸に入ってしまい、激しく咳き込む。その声の感じからして、男も若い。
「いっ……」
腹と左の脛から大量の出血があるレオは今まで動けたのが不思議なくらいで、回転の勢いのままその場に倒れ込んだ。
同じく強い蹴りを入れられて弾き飛ばされていた男は案外動けるようで、未だ咳き込みながらも立ち上がり、行き止まりに背を向けてその場を離れんとする。
よろよろとあとずさりするアズは肩で息をしているが、逆光で表情は見えない。
「で、んか……」
息も絶え絶えに言うレオに、アズはただひとこと。
「貴方は……貴方は、穏やかに生きなさい」
それは、とてもつらそうで、レオの忘れられぬ記憶となる。
重い外套を翻し、アズは男と共に去っていった。そこに置き去られた手負いの青年は、ただただその生命が体から流れ出ている現実に絶望した。
もう、アズと男は見えなくなってしまった。出血をぼんやりと見ていると、意識も朦朧としてきて自然とまぶたを重くする。
「さぁさ、生きろと言われたからには、生きなければ。そうだね?」
声は、どこから聞こえたのか。少し訛りがあり、女々しい男の声が聞こえた。
いくら大怪我をしているとはいえ、声がこんなにもはっきり聞こえるまでの接近を許した自分自身の感覚を疑う。今までこんなことはなかった、連続でそんなことを思う。
目の前に、救いが降ってきた。白く柔らかそうな薄い衣服をまとい、黒々とした髪は繊細で軽く動く。
「身内の裏切りってのはつらいよね。心中お察しします……ってやつかな」
ふざけたように言う彼に、レオはいささか腹が立った。けれど言い返す気力も削がれている。
未だわけがわからないまま彼を見ていると、彼は突然上衣を脱ぎ始めた。巧みな刺繍を丁寧に避けながら、しかしためらいなくその衣を破いていく。半裸になった彼は、その儚げな雰囲気と一致せず、薄らと筋が浮いている。
「うぅ、寒い寒い」
それもそのはず、人々が外套を着るくらいには、この国は冷涼な気候である。幸い今日は日が出ているが、日が沈めばなおさらだ。レオはけれど、夜の時間帯のこの寂しさはさらに気温を下げていると、常々思っていた。
彼が精巧な刺繍部分をくるりくるりと手の中に収めていく。その刺繍を、レオは見たことがあった。彼は、自分と同じところから来ている。
「水場は近くにあるのかい?」
迷路のようなこの街を、レオは大概知り尽くしているが、近くの水場と言われても、公衆の井戸はかなり離れている。レオは首を小さく横に振った。深呼吸をする。
「家ん中にはあるだろうよ」
弱々しくも、できるだけぶっきらぼうに聞こえるように言ってみる。
急に現れたこの男が、自分やアズにとって危険かどうかはわからない。彼は城から来ているのに、知らない顔だ。先ほどの出来事をどこから見ていたのか知ることは難しいだろうが、見ていた事実がある以上無害ではない。
レオは早くその男から離れたかった。できることならば、口封じをしてから……。まぁ、流石にそこまでは無理があるが。
「弱ったな。坊は歩けないだろうし、私は坊を抱えられるほど力持ちでないからね……」
彼は、レオのその態度を気にせずに続けた。
破った衣服を腹に押し付けて、もう片方で口を塞ぐ。布から染み出た真っ赤な血が手についても気にせず、レオのくぐもった悲鳴を聞きながら、けれどすぐに異変に気づいた。出血が少なくなっている。
最悪の想像をして息を飲み、レオの顔にかかった薄黄色の長い髪を、血に塗れていない手で優しく耳にかけてやる。
「……顔色が、良くなったね」
いつの間にか、蒼白としていないレオが見られた。足の傷は既に治りかけ、腹も端の方から傷口が閉じていっている。
反対に、男の表情は先ほどまでの余裕はどこへやら、青く強ばっていくことになった。
「ここでは、ドロッシアでは、常識が通用しない……」
人智を超えた治癒速度に、彼はつぶやいた。
まるでこの国に住んでいないような物言いに引っかかるが、レオはその独り言に助言した。
「あんたの常識は正常だ。俺が、異常」
もう傷の見えない左足を折って彼から少し遠ざける。長いまつげは音を立てて一瞬閉じられる。男は、俯いていた顔をレオに向けた。レオはさらに続けた。
「とにかく、余計なお世話だから。早く城に帰んなよ」
レオは自分が失言をしたことに気づいてはいなかった。
しかし聞いていた男は、レオに勘付かれないほどほんの少し目を見開き、それから口角を少しだけあげた。わざわざここまで来た甲斐があった、とでも言うように、得意げに。
「……そう、だね。ごめんよ、お節介で。君はもうひとりで帰れるだろうから」
白かった布切れを回収し、彼は立ち上がった。
すかさずレオは、折りたたんでいた足を男の脛めがけて突き出すが、男は見据えていたかのように地面を蹴って上部にある出窓の張り出した部分に飛び乗った。
「血気盛んで良いことだ。……本当に良かった」
強く睨みつけるレオを見つめる瞳は心からの安堵の表情を浮かべており、さらにレオを苛立たせたのは言うまでもない。
そのまま、男は去っていった。