波に揉まれし者〈2〉
「客よ、弁えよ」
少しだけ開いている窓から強い風が入り、フラゴリオの髪が乱れた。格好のついていた表情も共にくずれ、毒を吐きながらフラゴリオは手櫛を入れる。
ショウはそれでも、動悸が止まらずにいた。先程のフラゴリオに心臓を直に掴まれたような苦しさを感じていた。
空腹と重なり気分はこの上なく悪く、喉は胃液が逆流しているのか、苦味と辛味に突き刺されている。
虚空に落ちているような感覚で、もとの寝台の上に戻るきっかけを強く欲した。掴みどころはない。ショウの人より優れた五感はそれに付きっきりだった。
だから、開きっぱなしの扉から、もうひとり駆けてくるのに気がつかなかった。
口の両端から溢れる冷たい水が、そのきっかけとなった。そのあと、口に入れられた冷水に溺れ胸元に染み入る不快さが、目の前の人物に気づかせた。
「着替えと、新しい寝具を持って来させましょう」
淡々と言うのは、ショウと同じく彫りの浅い、吊り目の女だった。
老いてはいないが、気苦労が多いのか本来よりも老けて見えているのだろう。藻のような気味の悪い緑色の長髪を高い位置で無造作に結っている。服装はやはり異国的である。先の女中よりも裾の長く細身のスカートは髪と同じく緑色、色には意味があるのだろうか。袖の広がった丈の短い上着は詰襟で、男物のようにも見えるしっかりとしたつくりをしている。
水を飲ませてくれたのは彼女なのだろう、持っていたグラスは机上に置かれた。
咳を繰り返しながらショウは彼女を見ていた。
フラゴリオにねだられて彼を抱く姿は手慣れており、母親のようにも見えないことはなかったが、どこか歪である。扉の向こうにいるのだろう誰かに話しかけて戻ってきたあと、抱いていたフラゴリオを椅子に据え、彼に対して頭を下げた。そしてまた寝台に寄る。彼女は寝台の横で跪き、言った。
「アテナ・エルミスと申します。ことばはわかりますか」
咳は治まった。彼女はてきぱきとショウの脈をとり、顔にぺたぺたと触れる。ひとりで頷いてから、吐き出した水の染みた胸元や寝具を気にしている彼に目線で場所を移そうと提案し、机まで誘導する。その短い道中でショウは言う。
「……完璧ではないだろうけれど」
アテナは驚いていた。ショウがドロッシアの言語を話せることは想定外だったのだろう。
フラゴリオを見るが、彼は先ほど寝台から移されたのだろう果物をまたつまみ食いしていて、こちらを気にはしていない。
いささか呆れた様子で自らの椅子をショウの向かいに据え、彼女はまた口を開く。
「ああ、それなら話は早いです。状況をご説明しましょう。お名前だけお聞きしても?」
「マ……いや、ショウ・タバタという。ここはドロッシアで合っているかな」
彼が口篭り言い直したことはわかったがしかし、気に留めてもしょうがないと、アテナは話を進めることとした。
「タバタ様。……ええ、その通りここはドロッシア帝国ですが、ご存知で」
自身のドロッシアという国の知識の収集源を思い返せば、疑問に思われるのは当然である。あまり深入りされてしまえば、その収集源が不利益を被ることも考えられるため、ショウは軽く頷くに留めることにした。
アテナは、今度ははっきり見て取れるように呆れ顔をしたが、すぐに元の厳しい顔をして言う。
「大陸からいらっしゃったのだとお見受けいたしますが、我々にとって大陸は得体の知れない地であるため、きっと慣習なども異なるでしょう。
わたくしの対応が無礼となる可能性がございます、そのときは率直にお申し付けください」
それで、ショウは納得していた。得体の知れない土地の人間はなにをしでかすかも知れないものとすれば、先の女中の怯えた態度にも説明がつく。ショウは相槌を打った。しかし彼女は先の女中と比べ毅然としている。
「では、ご説明させていただきます。こちら、先ほど仰ったとおりドロッシア帝国の、宮殿離れでございます。
タバタ様は海にて救出されました、覚えていらっしゃいますか」
できることならば思い出したくなかったものだが、はっきりと覚えている。それら諸感情は押し殺し、さらに嘘を重ねてショウは頷いた。
「溺れたところまでははっきりと。どうも、船が嵐に遭ってしまって、それからはなにも。ここにきた経緯もわからないね」
「ええ、皇帝陛下の命を受け、漁師が救助したそうです。それから治療のためにこちらに」
そこに割り入ったのは、指と口周りを赤く染めたフラゴリオだった。
「ボクが、ボクが陛下に知らせたんだよ」
得意気に言う彼に、ショウは微笑んで返した。
「ありがとう、坊」
フラゴリオは、頬を膨らませた。名前を言っても尚の呼び方が気に入らなかったようだが、ショウが訂正することはなかった。
しかしアテナは顔を青くしてフラゴリオを庇い慰め、ショウを鋭く睨む。
「……いくら勝手を知らぬ異邦人でも許されないこともあります。
こちらの方は神託の御子フラゴリオ様です。どうか、どうか以降はご無礼のないよう」
神託は、この国ではるかに優位に立つのだろう。また先ほどの妙な苦痛を味わいたいとは思わないが、だからといってなにか恭しい敬称で話すのは柄に合わない。ショウは芯が通り過ぎている節がある。なにもかもを聞き流しつつショウは続けた。
「私がこんなに優待を受けている理由は? 大陸がそんなに避けられているなら、君らに私を助けた利点はないはずだ」
アテナはまだ目を白黒させつつも額に浮いた冷や汗を拭い、小さな咳払いをした。
「それは、神託が関係するのですが」
「全部言う必要はないよ、アテナ。こいつに知らせる意味なんかないもんね」
すっかり機嫌を損ねたフラゴリオはアテナの話を遮った。アテナは苦々しく頷いた。
「この国は神託で政がなされます。現在の神託は、六人の人物について語られており、その一説にタバタ様らしい人物が語られているのです」
これで良かったかと言うように、アテナは無邪気な神託に目配せをした。フラゴリオは鋭い目つきでアテナを睨み返したが、その意図はわからない。
ショウは面倒なことに巻き込まれていると察した。ちょっとやそっとでは抜け出せない穴に、目が覚めたら既に自ら出られない深さまではまっていたような心地がしていた。
ふと、扉の叩く音が聞こえる。アテナが招き入れたのは若い女中だった。腕には新しい寝具と着替えがある。あとで自分で着替えるから置いておいてくれと、着替えさせようと近づいた女中を退ける。女中はひとり寝具を取り換えはじめた。
ショウは話を続ける。
「その神託とやら、詳しく教えてはくれないのかい。私も当事者ならば、知る権利があるはずだ」
フラゴリオが果実を食べる手を止め、目玉をぐるりと回した。
「『波に揉まれし者、国の安定を握る者』……こんなのがね、揉まれし者〜なんとかする者〜って、六行詩で続くんだ。
それで、おまえはどう考えても『波に揉まれし者』、そうでしょ」
そう言われても、と肩をすくめるが、波に揉まれた事実は確かにある。だからといって、この国の安定を握らされても困ってしまうものだから、なんとかその責任から逃れるために疑問に思ったことを尋ねてみる。
「どうして、六人って決まっているんだい。その形式なら、『なんとかの者』は十二回出てくるはずだ。それなら十二人っていう可能性も捨てられない」
フラゴリオが皿の上の果物をすべて腹の中にしまい込んだ。
「それは、ドロッシアの伝統的な詩の形式だから? 同じ言葉で締める六行詩」
寝具の取り替えが終わったらしく、女中が部屋を出ようと一礼したところ、フラゴリオは待ってと声をかけた。
彼は席を立って扉まで跳ねるように移動する。女中に抱きつくフラゴリオに対し、女中は取り替えた寝具をフラゴリオに触れないように少し持ち上げる。
口を大きく開けてあくびをし、それからわざとらしく笑う。
「じゃあ、ボクはもう寝るね。おやすみ」
アテナが席から立ち、深く腰を落とす。
扉が閉まったあと、ショウは不思議そうに首を傾げながら言った。
「おやすみ? 昼寝かい」
窓からは穏やかに日が差していて、とても夜だとは思えない。しかしアテナは彼を怪訝そうに見て口を開いた。
「なぜ昼寝です? 今は就寝時刻を過ぎた頃ですので、あの方には遅すぎるくらい……」
「日が出ている」
「大陸では、夜は日が沈むものなのですか」
アテナは夜に日が出ていて当然という表情で淡々と言う。
ショウは混乱した。常識が通用していないことに若干のいらだちを覚え、興奮気味に言う。
「ああ、ああ。日が出ていない状態が夜だ。
高緯度なら白夜やら極夜やらあるが……今は春先だ。
それに窓も開いていて寒いなんてことは……時期も気候も、白夜にはならない」
それでも、彼女の不思議そうな表情は変わらない。
少し冷静になってその顔を真正面から見、それからショウは頭を抱え、椅子に座ったまま小さく体を倒す。血がのぼったせいで頭は鈍く痛む。
「タバタ様」
「……あした、諸々説明しておくれよ。今日はもう、私はまともに聞けやしない」
ショウの肩を支えたアテナは、渋々頷いた。ショウの触れないでほしいという気を量ったのだろう。一歩下がって続ける。
「食事はどうされますか、果物ひとつ食べていらっしゃらなかったとお見受けしますが。
なにか食べなければお辛いでしょう」
ショウはちらりと空になった果物皿を見て、息をついた。
「すぐに出せるのかい」
「もちろん」
たかだか食事の用意ができるかどうかを確認しただけだが、アテナは真剣な顔をしているものだから、ショウは少し微笑んでしまった。
「……では、軽いものをお願いするよ」
至極真面目な表情は崩れないが、アテナは了解した。
「すぐ人に持って来させましょう。わたくしはここで。では明日に」
彼女は最後まで毅然としたまま部屋から出ていった。扉が完全に閉まりきってから、鍵のかかる音が聞こえる。
「……またあした」
これでは優待されているのか、軟禁されているのかわからない。仕方ないと笑って、ショウは寝台に置いてある真っ白な着替えを手に取る。
「タバタ様、お食事をお持ちしました……」
ほんの数刻、本当にすぐに軽食が運ばれたが、ショウははじめからそんなものは頼んでいないとでも言うように、頭まで寝具を被っていた。
女中の声にも反応しなかったため、あえて起こすこともせず、女中は部屋中のカーテンを閉めて、燭台にひとつ灯りをともしてから部屋を出ていった。