波に揉まれし者〈1〉
元来、縦書きのために書いていたものを編集しているため、行間などの勝手が未だにわからないのです。
読みにくいとは思いますが、どうぞ、やさしい気持ちでお読み下されば嬉しい限りです。
ショウは頬を刺すような冷たい風を感じ、目を開けた。
ぼうっとした頭が鮮明になっていくと同時に、ここが自分の寝床でないことに気づき跳ね起きる。が、途端に頭痛がして思わず頭を抱えた。
ままならない、と独り言がこぼれる。
深呼吸をして、次はゆっくりと辺りを見回す。
色硝子の窓や、壁にかけられた絵画はこの上なく上品だ。そばの棚の精巧な装飾、今いる寝台の寝具、着ている異国的な衣服の刺繍や肌触りも素晴らしい。赤い石の暖炉に火はないが、部屋はあたたかで過ごしやすい。
どこを取っても、裕福そうな、贅を尽くした、しかしどこかエキゾチックな部屋である。
私はなぜここにいるんだっけ……。わけを知る前に、ここがどこだかを知らなければならない。どこか知らないところにたったひとりでいるのはあまりにも不用心だ。
寝台から足音を立てずに降りる。垂直に立った瞬間から頭痛が酷くなり立ちくらみが起こったが、気にせず歩みを進める。
風の吹いていた片開きの窓は拳ひとつ分だけ開いていて、それ以上は開かないように殺されている。空気は肌寒く、ちょうど冬から春に移り変わるくらいの季節だと予想させる。
隙間から外を見たところ、ここはそれなりに高いところらしい。地面から三、四階といったところだろうか。
近くは大きな庭のようだ。低木や色とりどりの花々だけでなく、温室や東屋と思われる施設までもが見える。
少し遠くを見たのなら、まず赤っぽい石の壁があり、その奥に同じ赤い石造りのまた異国風の建物が立ち並んでいる街が見えた。どこまでも知らない風景である。
やはり異国で間違いないのだろうか。
次は扉を確かめようと振り返ったとき、問題の扉から鍵の開く軽い音が聞こえたので、ショウは寝台へ戻り、もとの格好で待つことにした。目を閉じて、耳を開いた。
扉が開いて、誰かが部屋に入ってくる。ひとりだけのようだ。
寝台までは至らず、きっとその手前にあった机になにかを置いたらしい。グラスに液体の注がれる音が聞こえる。
そして、やっと寝台の隣に来る。
「名も知れぬ旦那様。お食事をお持ちしましたが……お目覚めでしょうか」
その上擦った声をした女の話す言語を聞いて、ショウはなにもかもを思い出してしまった。
ここはドロッシアである。ついに辿りついた、ここが……。
喚起される記憶があまりにも酷いものでつい空寝に耐えられず、ショウは腕で顔を覆い、大きなため息をついた。
女が息を呑んだ。
「旦那様、お目覚めに……」
女の姿をきと見る。
自らの国とは違うが、清潔そうな前掛けをした姿から読むならば、女中だろうか。
顔立ちは自らよりも彫りが深い印象を受ける。若くはない。くすんだ青の瞳や、色の抜けた髪が、ここは異国であるということを強調している。
不可解なことに、酷く怯えているようだ。目が合った途端に顔を逸らし、口を利く間もなく逃げるように寝台前の机に戻っていく。
女の様子を追おうと、体を起こしてみる。
その机には女が持ってきたのだろう果物の盛られた皿と水差しが置いてあり、女は果物の少量を別の皿に取り分けているようだ。
しばらくその様子を見ていたが、女がこちらを振り返った際はなんとか誤魔化した。
「旦那様、こちら、お好きなものをどうぞ。私は上に報告して参ります」
女は寝台の上に膳を据えてから早口でそう言った。一歩下がり恭しく礼をし、また机に戻った。果物の皿を持ち上げて、思い出したかのように彼女は言う。
「ああ、水差しはこちらに置いておきますので、お好きなときにお飲みください」
彼女はそそくさと部屋をあとにした。
さて、残されたショウは果物を前にして途端に空腹感に苛まれたが、なんとも食指が動かない。
盛られた果物は苺の類が多いようで、赤いもの、黒いもの、黄色のもの、それぞれある。
みずみずしく宝石のような輝きを放つその粒の中に気味の悪い渦が見えた気がして、ショウはさっと目を逸らした。
どうやって助かったんだ。どうやってあの状況から生還したんだ。どうやって今の状況に至ったんだ。
そんなことが脳裏を怒涛のごとく流れていく。
それ以前ははっきりと思い出せるのに、あの船から落ちた、否、落とされたあとのことを思い出そうとすれば、最早割れそうなほどの頭痛がさらに酷くなる心地がする。
体を倒す。苺が跳ねて布団に落ちる。
船から海原に放り出されて、浜などに流れ着いたことにしても、今の待遇の理由に心当たりがない。
わからないことが多すぎて、答えをなにひとつ導き出せない。あの女中はまだ帰ってこないのだろうか。
寝具は柔らかい。一瞬だったのか、それともうとうとしていたのか、周りの風景は変わらない。
ふと、子供の声がした。扉の向こう側で歌を歌っているようだ。だんだん近づいて、そして、鍵の開く音がする。
体を起こしたショウは、どうしても現れた子供を、子供だとは思えなかった。昔、よく似た厄介な客がいた、ショウはぼんやりと思い出していた。
「本当に起きたの。ずっと起きないからボクはもう、神様が間違えてて、死んじゃったのかと思った」
兎のような子供だ。
目の覚める眩しさの白髪が、ふたつにわけて高い位置で結われている。大きな瞳は布団に落ちた苺と同じくらいの赤で、ショウはその瞳にも渦が見えた心地がした。
それだけ対比の強い見た目と、そのなんとも言いがたい独特な雰囲気をもつ子供は、どうしても見た目通りの七歳くらいの子供には見えないのだ。
なにを言おうかと黙っていたが、その子供はショウの様子など見ていなかった。
「ねえ、それ食べないの」
言いながら子供は寝台によじ登っていた。
「……食欲がないんだ、坊よ」
ショウは動揺を悟られないよう言った。
子供はまったく聞いていないようだったが、その様子とは裏腹に動く唇をショウは見逃さなかった。
「変わらないね、お前」
ショウは瞳孔が開くのが自分でわかるようだった。魔法にかけられたみたく、なにも言えなくなった。
子供はショウにまたがって、膳の近くへと行く。
手をついたところには先程ショウが落とした赤い苺があったが、無惨にも潰されて、赤いしみが広がった。
子供はそれに気づいて、幼いながら端正な顔を思い切り歪めた。果汁を白い布団に擦り付ける。そしてなんの脈絡もなく彼は言うのだ。
「ボクこれ好きなの。食べていい?」
返答を待たずに、子供は指差した黒い苺を口に入れた。
この子供は、無邪気ではない。自分なら、ここまでなら許されると計算した上の行動だと、ショウは感じていた。
「坊は……誰だい」
「ボク?」
ショウは違和感の正体を暴けない、そんな妙な確信を抱いていた。
こんなに単刀直入に尋ねて返ってくるはずのない答えだ。
「ボク、フラゴリオって言うの。ああ、もうちょっとかっこよく言えばよかったな。やり直すね」
やはり欲しい答えではなかった。
ショウがその客と出会ったのはもう十年も前になるから、そのとき青二才であった彼も、とうに大人になっている。そもそも、出会ったときからこんなにも幼くはなかったため、他人の空似なのだ。
にしても、「変わらない」とはどういうことか。
考えるうちに、フラゴリオは寝台から飛び降りて、ふわりと一回転して見せた。それがあまりにもゆっくりと行われたため、ショウは彼に羽がついているのかと錯覚した。
「ボクは、神託。フラゴリオと名乗る」
白い髪も赤い眼も、超自然的に煌めいていた。
「お前は、神託にて告げられた者の候補。客よ、弁えよ」