超常現象 あるいは怪物⑥
入口前のロータリーで、紀乃だけ降ろしてもらう。入ってすぐのところに、山内が立っていた。顔色はよくない。
「悪いな、とんぼ返りさせて」
「先生、さっちゃん……石田さんは……」
「大谷紀乃さんですね?少しお話があるので、我々と一緒に来てもらっても?」
山内との会話は第三者によって遮られた。山内の後ろから、スーツを着た男が二人、歩いてくる。一人は三十代後半から四十代くらい、もう一人は二十代に見える。なんだろう、と思っていると山内がぎろりと二人を睨んだ。
「再三お話しましたが、彼女は大阪から今戻ったばかりです。ただでさえ混乱しているんです、もっと気遣ってください」
「とはいえこちらも、関係者の皆さんにはお話を伺わないといけませんので。何せ殺人未遂です。身内の証言はアリバイにはなりませんからね」
年上の方がへらりと笑う。目の奥は笑っていない。どうやらこの二人は刑事らしい。殺人未遂、という単語に背筋が凍った。そして自分はその容疑者になっている。けれどもそれはあり得ない。山内の言うとおり、大阪から戻ってきたのだ。物理的に不可能だ。よしんばできたとしても、そんなことするはずがない。
ぎゅっと肩に力が入ったのを感じた。ふっと目線をずらすと、刑部が二人組を見据えていた。
けれども刑事が言うとおり、身内の証言はアリバイにならない。そう言われてしまうと、一緒にいたのは身内しかいないのでほとほと困った。証拠になるかは分かりませんが、と貰った領収書を見せた。それを見て、若い方は裏取りますといってどこかに電話をかけるのか、出入口に向かった。年上の方は苦い顔である。
「随分と抜かりない……」
「動かぬ証拠ですよね」
「あの、さっちゃんは今どうしてるんですか、会わせて下さい」
わたしはそのためにここまで来た、と大人二人に訴えた。山内は刑事を後でいいでしょう、と睨んだ。刑事は紀乃のことを検分するように見ている。外に出た若い方の刑事が、青い顔で戻ってきた。さっきまでの疑いの目はどうしたのか、丁重な態度である。
「あ、もう先生と一緒に石田さんのところに行ってあげてください。僕らはほかを当たりますから」
「おい、勝手なことを言うな!」
「だって!大谷元官房長のお孫さんですよ!俺たち下手したら首が飛びます!」
泡を食った後輩の叫びに、三秒ほどその意味を吟味するように目を動かし、そして理解したのか先輩刑事はみるみる青い顔になった。
「……元官房長の御令孫?」
「私の娘でもあります。……早く友達にあわせてあげてください」
果たしてどうやってきたのか、振り向いたら泰政が後ろに立っていた。梓たちの姿が見えないあたり、単騎できたらしい。刑事ふたりは、青い顔で震え上がった。逆光になってどんな表情かは分からないが、泰政の声色は極めて冷静だった。けれどもそれがかえって刑事コンビには恐ろしいらしい。若い方は目尻に涙まで浮かべている。
「そちらが山内先生ですか。挨拶は改めてしたいと思いますが、紀乃の父です。娘を石田佐月さんに早く会わせてあげてください」
ホテルでの無視っぷりが嘘のように、非の打ち所のない父親然とした挨拶だった。山内はうなずいて、紀乃を先導した。エレベーターの横に、フロアガイドが設置してある。入院病棟は、三階からのようだ。
エレベーターが来るのを待っている間、山内は無言なうえに不機嫌そうな顔だった。代わりにずっと黙ってついてきていた刑部が、泰政の変わり身に対して怒気をあらわにした。
「なんねあれ。ほんまに姿見せて怒鳴ろうかと思うたわ。いまさら父親面すなよ」
「仕方じゃないじゃないですか……父親なんだから……」
明らかに不満顔のふたりにどう答えようかと思ったら、自然と言葉が出た。しかし悲しいことにそれは二人の怒りを買ってしまった。
「お前、よう考え。十年以上お前をほっといたんじゃ。娘のことそんなに放ってる父親、ろくでなしじゃろうが」
「金だけ出せばいいと考えてるのは特に男親には多いが、親の役割はそれだけでは無い。保護責任を無視しているとしか思えない」
二日連続で二人にすごまれ、紀乃は意気消沈した。絵面だけならハンサムふたりに囲まれて、両手に花(の表現でいいかは不明だが)なのだが、ちっともうきうきしない。むしろ気分は重くなるばかりだ。
ようやくエレベータが来たので乗り込んだ。山内が押した階数と、フロアガイドを見比べる。三階は、ICU。それだけで重篤だとわかる。でも、山内や紀乃が面会できるなら、深刻にとらえすぎなくていいかもしれない。
まずはICUのナースセンターに向かい、山内が看護師に説明をした。看護師派では、と先導した。防護服は着なくていいとのことで、そのまま病室に向かった。佐月の部屋は、三〇一号室らしい。ドアが開けられ、看護師が中に入るよう促した。
佐月の頭には、ぐるぐると包帯が巻かれ、顔に大きなガーゼも貼ってある。その状態でぐったりとベッドに横たわっている。大きなモニターの心電図が脇に置かれ、ピ、ピ、と今は規則的な音が響いていた。
「さっちゃん」
呼びかけたところ、うっすらと佐月は目を開けた。紀乃の姿を確かめると、じっと見つめて、軽く左手でベッドの柵を叩いた。こっちに来て、ということらしい。すぐに望み通り、ベッド脇に移った。ちょうど椅子もあったので腰掛ける。手を握ると、驚くほど冷たかった。
何か言おう、と思っていたのに、言葉が出ない。代わりに佐月が口を開いた。驚くほど、弱弱しい声だ。
「……来てくれて、ありがとう。紀乃に言いたいことがある。……乙宮姫子に、気をつけて……」
「えっ?誰、それ。その人が、さっちゃんのこと、こんな風にしたの?」
笑うつもりだったのに、思わず真顔になってしまった。殺人未遂、と聞いている。ならばその人が犯人だ、と考えるのは自然である。佐月は否定も肯定もしなかった。それは警察が調べたらわかる、と妙に意味深な返事だった。
疲れてしまったのか、また目を瞑った。心電図の動きに変化がないことに安堵する。やがてすう、という規則正しい寝息のようなものが聞こえてきた。痛々しい親友の姿と、突然告げられた人名に、紀乃の思考はぐちゃぐちゃになった。
そしてそのタイミングで、泰政が病室に入ってきた。相変わらず表情は変わらない。
「……今聞いたことは、気にしなくていい。あとは全て警察の仕事だ」
「気にしないなんて無理……」
それだけ言うのが精一杯だった。突然現れた人名は、一切聞き覚えのないものだ。けれどもこの状況で、佐月が気をつけろ、と言うなら重要参考人である。佐月を突き落としたか、あるいは誰かに指示して突き落としたのか。警察の仕事だ、と言われたって、気をつけろと聞いた。それなら、気を付けるために何かしら知りたいと思う。
「気持ちは理解する。けれども犯人を探すのは警察の仕事だ」
「じゃあ早く捕まえて。さっちゃんをこんな目に遭わせた犯人を早く捕まえてよ!絶対許さないから!」
声量こそ抑えたが、心の中ではドロドロと熱いマグマが渦巻いている。誰、さっちゃんのことこんな目に遭わせたのは一体誰なの。ビンタ一発じゃ済まさない。もし王様だったなら、犯人を捕まえ次第、一番残虐なやり方で処刑する。そんなふうに思考が飛躍してしまう。
「わかった。約束する。お父さんが必ず、捕まえる」
泰政は紀乃の近くまで来て、しゃがみ込んだ。そして、小指を差し出した。……指切り、だ。
紀乃は泰政の顔を、初めてまじまじと近くで見た。確かに盛房にも梓にもあまり似ていない。ついでに勝治ともあまりに似ていない。けれども不思議と、この人はわたしのお父さんだとようやく実感として思えた。その表情は、警察官としての使命に燃えるのと同時に、目の前にいる娘を気遣う父の顔でもあった。
「今更父親面をするなと思っているだろう。けれども、お父さんにできることは、これくらいだ。紀乃の親友を傷つけた犯人を捕まえる。それがお父さんの仕事だ」
泰政の目は真剣だった。本当にそう思って言っている。今はそれにすがるしかなかった。恐る恐る小指を差し出した。ぎゅっと絡められてすぐ離された。泰政は立ち上がって、やってきた看護師に院長に会いたいと言った。話しかけられた看護師は、師長に聞いてきます、と震えた声で返答した。
静かだ。心電図のモニターだけが、音を立てている。誰、乙宮姫子って、何者なの。
顔を動かすと、額に拳を当てて蹲る刑部と、青い顔をした山内の姿が目に入った。どうして、と二人が重なるか重ならないかのタイミングで呟くのが聞こえた。それを聞いて、紀乃は自分はとんでもないものに巻き込まれた、という嫌な予感を覚えた。